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さて、また、話を昭和26年(1951年)の昔に戻しましょう。 昭和26年(1951年)4月11日、びっくりするようなニュースが流れました。アメリカ大統領・トルーマンがマッカーサーを解任したのです。まだ朝鮮戦争が途中だというのに。 アメリカ大統領・トルーマン ところが、マッカーサーはすぐにこの解任を受入れ、わずか5日後に日本を離れて、家族とともにアメリカに帰国しました。日本占領連合国軍最高司令官の後任には、リッジウエイ中将が任命され、大将に昇任しました。 マッカーサー解任・リッジウエイ着任を報じる新聞(世界通信) マッカーサー解任の理由は、公に報道されませんでした。元々マッカーサーは、アメリカの民主党の方針とそりが合わなかったようです。 しかしマッカーサーは対日戦争でアメリカに勝利をもたらした英雄とされ、トルーマンもよほどの理由がなければマッカーサーを更迭することができないのだ、と言われていました。 それをあえて解任したのは、マッカーサーが中華人民共和国の領土となった旧満州を爆撃し、場合によっては核攻撃も辞さない、との構えを見せたからだといわれます。 「旧満州には日本が建設した工業施設・軍事施設や武器弾薬が多く残されていて、それらが中国軍に利用されている、それをたたき潰さなければ」 というのがマッカーサーの意見でした。しかし、その作戦は、中国との全面戦争に発展しかねない、とトルーマンは危惧(きぐ)したようです。 マッカーサーはアメリカに帰国後すぐ、4月19日にワシントンの上下両院合同会議で、有名な退任演説をしました。そのなかの、 「Old soldiers never die,they just fade away (老兵は死なず、ただ消え去るのみ)」 がよく知られています。ただ、これはマッカーサーの造語ではなく、アメリカ陸軍の古い兵隊ソングからの引用でした。自分の解任に対しての、痛烈な皮肉も込めていたのでしょう。 上下両院合同会議で退任演説するマッカーサー マッカーサーは、戦時中と敗戦直後は、日本人から見て 「憎っくき敵軍の総大将」 でしたが、戦後6年にわたる占領中に、次第に日本人の信頼を得て、離日の時には、沿道に20万人の群集が詰め掛けて、別れを惜しみました。敗戦後の6年間、彼は事実上日本の統治者でした。 アメリカでも、ワシントンで50万人、ニューヨークで700万人がパレードに集まって、彼の凱旋を祝福したとのことです。マッカーサー、このとき71歳。 マッカーサーの後任として連合国軍総司令官になったリッジウエイは、就任した期間も短く、日本人はなじみを持ちませんでした。 リッジウエイ * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * こののち、マッカーサーを共和党の大統領候補にしようとする動きもありましたが、高齢のため実現せず、昭和27年(1952年)11月のアメリカ大統領選挙では、マッカーサーの元の部下で、ヨーロッパ戦線での連合国軍最高司令官を務めたアイゼンハワーが当選しました。 引退後のマッカーサーを訪問する吉田茂 (1954年・出典 Wikipedia) 昭和39年(1964年)4月5日、マッカーサーは日本の再発展を見ながら、老衰による多臓器不全のため84歳で死去。アメリカの偉人として国葬が執り行われ、日本からは、代表として吉田茂が参列しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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