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私が大学の卒業論文の仕事を始めた昭和26年(1951年)、日本と連合国との講和が進行しました。 昭和26年(1951年)1月1日に、マッカーサーが日本との早期講和を強調し、ダレスが講和特使として来日したことは2011年6月1日のブログに書きました。 その前年から、日本国内では、講和論議が高まっていました。敗戦後の混乱からひとまず落ち着いたのだから、早く被占領国から脱して独立した国になりたい、これは国民すべての願望でした。 ただ、講和は相手のあることで、戦勝国側が応じてくれなければ話になりません。それなのに、国内では講和のあり方に、単独講和か全面講和かの議論が先走りしました。 全面講和とは、アメリカ・ソ連を始め、すべての交戦国と和解する講和です。単独講和とは、東西両陣営が対立する今、全面講和を待っていてもいつになるか分からないし、アメリカ・イギリスを中心とする西側各国とまず講和して独立するのが現実的、というものです。 全面講和論者は、おもに左翼系の人たちでした。その先頭に立ったのが東大総長の南原 繁(なんばらしげる)です。南原 繁は左翼系の人物ではありませんが、キリスト教無教会派の理想主義者でした。 吉田 茂 南原 繁 この全面講和論を唱える南原 繁に対して、総理大臣・吉田 茂は、「曲学阿世(きょくがくあせい)」の徒として名指しで非難しました。曲学阿世とは "学を曲げて世におもねる”ということです。 朝鮮戦争の経過から、吉田 茂は講和を持ちかける時期と見て、大蔵(おおくら)大臣・池田勇人(いけだはやと)をアメリカに派遣しました。、昭和26年(1951年)早々のマッカーサーの早期講和談話、講和特使・ダレスの来日は、その成果でした。 昭和26年(1951年)7月、アメリカとイギリスは、講和会議の招請状を、日本を含む50数箇国に送りました。中国に対しては、アメリカとイギリスの意見が合わず、中華民国にも中華人民共和国にも招請状を送りませんでした。 そして、昭和26年(1951年)9月4日から8日にかけて、アメリカ・サンフランシスコ市のオペラハウスで講和会議が開催されました。参加した国は日本を含めて52カ国。 日本からの全権団は、首席全権が 吉田 茂(首相)、全権委員は、苫米地義三(国民民主党党首)・徳川宗敬(参議院緑風会議長)・池田勇人(蔵相)・一万田尚登(日銀総裁)・星島二郎(自由党総務)の6人。 吉田茂は、日本社会党にも全権団への参加を求めましたが、社会党は全面講和を主張して参加しませんでした。 9月7日、吉田 茂首相が条約受諾演説を行い、翌9月8日、49カ国が平和条約に署名して、講和会議は閉幕しました。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3カ国は、会議には出席しましたが、条約に署名しませんでした。 平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員 平和条約のおもな内容は、次のようなものでした。 〇日本と連合国との戦争状態の終了 〇日本国民の主権の回復 〇朝鮮の独立承認 〇朝鮮・台湾・澎湖諸島・南沙諸島・千島列島・南樺太に対する全ての権利放棄 〇南西諸島や小笠原諸島をアメリカ合衆国の信託統治に置くことの承認 〇極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決の受諾 この条約締結で、連合国は、日本国及びその領海に対する日本国民の完全な主権を正式に承認しました。 講和会議終了後、場所を変えて、日本とアメリカ合衆国の代表は、日米安全保障条約を締結しました。この条約には、吉田主席全権が単独で署名しました。 日米安全保障条約に署名する吉田主席全権 連合国との平和条約とアメリカ合衆国との日米安全保障条約。この二つの条約締結によって、日本は独立を達成し、西側自由主義国の一員として位置づけられることになりました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 平和条約締結を報じる新聞記事 平和条約の締結によって、日本は、ひとまず連合国による占領下から脱して、独立しました。しかし、敗戦によって、明治以来の国富と領土を失い、戦前の自称一等国から、世界の三等国か四等国に転落しての再出発でした。 平和条約は、その後、国会での承認、内閣による批准を経て、昭和27年(1952年)4月28日に発効しました。 講和会議に出席しなかった中華民国とインドとは、翌昭和27年(1952年)、個別に平和条約を締結しました。また中華人民共和国とは、後年になって平和条約を締結しています。 しかし、ソ連と、その後を引き継いだロシアとは、その後60年を経ても、いまだに平和条約が結ばれていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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