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カテゴリ:作品レビュー(日本映画)
「ダーティー・ハリー」の登場は、警察組織の枠組みや
法の限界によって悪を取り締まれないことを打破したこと への痛快さがあった。 しかし、その続編では、ハリー・キャラハンは、第一部で 自らがそうであったような警察内部の過激派と対立する ことになり、彼の魅力は薄れていく。 「猿の惑星」でも、猿と人間の立場の逆転というショック が「第二部」ではミュータントの登場により、その衝撃 はなくなってくる。 (どちらも監督はテッド・ポスト!) さて、この「デスノート」自体も、そのような危険性を はらんでいる。 法で裁くことのできない犯罪者を情無用で殺していく。 これにはある種の痛快さがあるだろう。しかし、その立場 をどのように設定するかで、この物語の魅力は左右される のではなかろうか? 夜神月は捜査本部に入り込むことで、単なる補完物となる のか、それとも敵に潜り込んで、自らを捜査するという 「インファナル・アフェア」的ドラマとなるのか、それは 続編に期待したい。 前編を見る限り、せっかくの「デスノート」に権力者の 名前を書かないという点でこの物語の限界を露呈している と評価せざるを得ない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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