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テーマ:映画から何かがはじまる(568)
カテゴリ:作品レビュー(外国映画)
この映画には2種類の人間が登場する。
まず、現実と直接的に向き合って、そこから生きる術を得ていく人。 オフェリアの母、小間使いメルセデス、医師、そしてゲリラたちが、 それに相当する。 もうひとつは、現実と自分との間に「物語」を置く人。 主人公オフェリアである。 従って、オフェリアが向き合っているパンに案内される王国は、現実 逃避の夢ではなく、現実そのものである。 従わない住民たちを残酷な方法で弾圧するフランコ政権そのものを オフェリアの眼で見ると「パンと彼が案内する王国」となるのでは なかろうか。 つまりビダル大尉をオフェリアの眼で見るとパンになるのではなかろ うか。 この二人は同じものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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