難しい
日弁連:高校教諭の差別発言、糾弾教師らに勧告「人権侵害行わないように」 /三重毎日新聞 2005年3月3日 日弁連によると、男性は99年4月、近隣住民に対し被差別部落への差別と受け取れる発言を行い、勤務する松阪商業高校で問題になった。同校の同和教育推進教諭2人は男性を厳しく問いただしたり反省文を書かせ、県教委の担当者は、同校の教職員や学生、県教委など400人が参加する「糾弾会」などを開き、男性の発言を追及した。 男性から人権救済申し立てを受けた日弁連は、事件委員会を設け調査。県教委が糾弾会などに男性を事実上強制的に参加させたことや教諭2人の行動を「人権侵害」と認定し、今後同様の人権侵害を行わないよう勧告した。一方で、問題の発端となった男性の発言については「差別にあたる」とした。被差別者が神経質になるのは解る。この先生が何をどう言ったのかはしらないけれど、「差別にあたる」と勧告されるような言葉を口にする方が悪い、とは本当に思うんだけど。これもやっぱり「やり方」の問題なのかな。同校の人間が本人に直接問いただしたり反省文書かせたり、それで本人に反省の色が見えたらそれでいいんじゃないかと思うのに、どうしてそこで更に400人も人集めて糾弾会なんかしなくちゃならないんだろう。本当の意味で差別に苦しんでる人はたくさん居る。私は障碍者ではないけれど身内に重度障碍者が居たり、自分も先天性で病気持ってたり、メンヘラだったりしてるから「差別」に関してはやっぱり神経質に反応してしまいがちになる。多分考えすぎではあるんだろうと思う。でも何だか、こういう行きすぎた差別狩りがあるからこそ余計に差別が広がる気がするんだ。被差別部落に関わると怖いって、そんなイメージが定着しちゃって結局恐怖心による差別につながってる気がするんだ。私が子供の頃住んでた地域は部落教育に非常に熱心な地域で、住んでる場所や職業や公共施設の利用まで制限されている人たち、と習っていた。だから「差別」はやめましょうね、みんな同じ人間なんですからね、という教育だったんだけど、子供心に「何故そんな事実をわざわざ学校教育で広めるんだろう」と疑問だった。だって、そういう地域を知らなければそれを理由に差別する事自体、ありえ無い話じゃないのかと。そう教師に聞いたら「あんたは人の痛みが解らない酷いやつだ」と見事にレッテル貼られて虐めにまで発展して…って、ああ、やっぱり昔の事思い出すと嫌な事ばっかりまず浮かぶな…。被差別地域の差別を無くすのって、今色々ある差別の中で一番簡単なんじゃないのかなーと思うのは、私が被差別部落の人間じゃないからなんだろうか。何処が被差別部落と言われた所なのか、記録や色々な文献なんかを一切閲覧不可能にしちゃって、しかも今後一切その場所の事には触れないようにして、それこそ「あそこは部落だから」なんて言う人には今流行りの人権擁護法案でも適用してもらったりして、兎に角「場所」を完全に秘匿してしまえばいずれ消える差別だと思うんだけど。戦後からそうしてれば今ごろそういう差別は忘れられてたと思うんだけど。…ただ、「差別しないでくれ」って言う人の中にどうしても「今まで受けた差別の分、優遇してくれ」っていう人が少なからず居るのが問題なんだよな…忘れて無かった事にされてしまうと、困る人が居るのが本当に問題なんだよな…こっそりリンク3/28追記:リンク先で少しお話をお聞きしてきました。後日またちょっと現在の考えをまとめてから先に進めたいと思います。plummetさま、ありがとうございました。