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人気テレビ番組で「はじめてのお使い」というのがある。 「はじめて」という位だから当然年端もいかない子供たちのお使いの珍道中だ。見てるといろいろな子がいるなあと思う。自分自身「はじめてのお使い」は記憶にはない。ただどうやら「特定の考え方」の方々に言わせると、私の「はじめてのお使い」は「サタンのお使い」と言われてしまうのだから穏やかではない。 今日のお昼に近い時間、我が家のインターホンが鳴った。 嫁様が出ると「ボランティアで聖書の・・・」ということ、来た~。そしてぜひ読んで下さいとポストに冊子を入れていくとのことだったので、嫁様が丁重にお礼を言っていた。インターホン越しだと50代後半の少し厳しめだが清楚なスリムでセンスのいい感じのご婦人。口調も穏やかでいつぞややってきた若い「イエスの~」なんていきなりドン引きな口上ではなく穏当で上手。かなりのベテランとお見受けしました。 ポストには「目覚めよ」「●●●の塔」の4月号が入っていた。ネットでは既に8月号が見れるというのに・・・冊子の在庫処分?とも思ったのだが改めて見ると「●●●の塔」P29の読者の質問コーナーに妙なことが書いてあった。ネットで見た時には見落としていた部分だ。 イエスが産まれた時、東方から賢人がやってきて、神の子を祝福したくだり、その東方の賢人たちはイエスの上に星が輝くのを見て、誕生を知った。そしてヘロデ王にそれを告げたという部分。私も幼稚園がカトリックだったので、クリスマス会の劇でそのイエスの元を尋ねる賢人を演じたことがある。なんとそれがサタンの企てであったというのだ! P29によると、そもそも賢人は異教の占星術師であること、また神が自分の大事な大事な子の居場所を敵(ヘロデ王)に教えるような真似はしないはずなので、あれはイエスの誕生を喜ばないサタンの企てでイエスを亡きものにしようとしたんだそうな・・・。 そうなるとさしずめ5歳の私は異教徒のサタンのお使いだったという訳だ・・・。 まあこういう意見もあるのかな?と少々無茶に納得するしかなかった。 確かに彼らの依拠する考え方の中では筋が通っている。だが実際にはそこは「謎」だ。あとは推論でしかない。だからそういう考え方もあるのかもしれないが・・・。 まあ、しかしはじめてのお使いが「サタンのお使い」だった私。随分とまあハナから重責を担わされたものです。今日来たご婦人は神のお使いなのかもしれませんが、そのお使いが身を結ぶことを願ってやみません。その考え方の神様のお使いが増えているとは聞きませんが世の中は非常に不条理なので、かつての「サタンのお使い」にはちゃんと次世代の「サタンのお使い」が育っております。神を信じ、その思し召しに沿わないとあの「特定の考え方」によれば「滅ぼされる」らしいですが現時点ではサタンの方が増殖しております。 それが現実の世界です。
5/2、私と子供は幕張のプラレール展にいた。だがその時間嫁様はホテルニューオータニ幕張である先生の講演会にいた。 その先生は高濱正伸氏。「花まる学習会」という独特なメソッドの塾を主宰され、最近はソロモン流、カンブリア宮殿などにも出演している注目度ががぜんあがっている先生である。今回の講演のお題は「メシが食える大人にするには」「母親への贈り物」というものだそうだ。こんだけの先生の講演をこんなに近くで聞けるのは中々ないこと、まだ子供は3歳にならないが、いずれ教育問題は我が家にも大きくのしかかる、だったら一度まず予備知識的なものでいいから聞いてみろと私は背中を押した。ニューオータニ会員は4,500円、立食ではあるが昼食付き、他の子のママと話するのもいい経験。安いいいイベントだと思う。 話を聞いてきた嫁様によれば、なんとその思想は「私に近い」とのこと。 「私に近い」というのはどういうことか?嫁様曰く「母親が幸せであること」「子供には伸びる力が備わっていること」「少々危なっかしくても体験させること」等が「同じ」なのだそうで驚いたとか、ただそれは少し違う。子供を良く見ていればそこに収斂するものなのだ。高濱先生はそこを子供への愛情と強い意思で多くの子供に実践させているそこが従来になかった視線なのだ。 「メシを食える大人」これ以上は語れないが我が家にも深く深く突き刺さるトゲ。 当たり前に子供を育てればそうなるという御仁も多いかもしれないけど、そうではない。たまたまその家庭はその子供の芽を摘まなかったからそうなったのであって、知らず知らずうちに摘んでしまえば途端に「メシを食えない大人」にしてしまう。極端な例だと命を絶つ例があるのは以前も書いたとおりだ。我が子はもうすぐ3歳の男の子だが、女の子は専業主婦という道もあるが男の子は基本的には自然界同様、餌を妻と子のために取ってくる役割を負わされる。今後の社会変化もあるかもしれないが、大枠では変わらないだろう。そのため荒波を乗り越えて強い意志で働いていける子に育てる必要がある。 私は大学で教員免許をとり、それなりに教育学を学んだ。学生の時は塾でアルバイトもして多くの子供を指導した。そんな中で得た経験が嫁様が曰くことだった、それが高濱先生の講演と被ったという訳だ。 私は女性には比較的甘い。というのも男性は女性には敵わないから。 子供を産んでもらうのも、パートナーになってもらうのも女性側が通常OKしてくれなければ無理。つまり男女関係で選択権の多くは女性側が持っている。子育てにしてもそう、子は地球がひっくり返っても母から生まれる、母の乳を飲む。子が自立できるまで母子は一体なのだ、そんな状態の母が不幸だったらもう片方の分身の子供に良い訳ない。 経験も大事。へこたれる経験、痛い経験、生存競争には必ず痛みが伴う。その痛みを知ることで大きくなれるが、それは子にとっては苦しみ。やる気をなくしたりする原因となる。その時に必要なのは子供の気を折らないこと。誰かさんが「ほめる」ということを私に説法していたがそれは確かに一つの方策ではある。だが「ほめる」こともうかつに、或いは恣意的に使うとそれはマインド・コントロールにつながる。 要は適度が大事、その辺に落ち着くのかな。遊びも勉強も、その双方を普段の経験にどう結び付けていくか?そこがポイントだと思う。今回の5/3~4の旅行も正にポイントはそこ、今はまだ記憶には残らないだろうけど、プラレールで遊んでいる列車やバスは実際にはここをこういう風に走っている現実、お金を高く払うことはこういうサービスを受けること、ものの価値や現実を肌で知ることで、そこになぜ?とか考える子になって欲しい。またその子を育てる嫁様にもそこを知って欲しい。それを子育てに活かして欲しい。それがコンセプトだ。 そういう現実から目をそむけ、下手に痛みを避け特定の対象に人を縛り付ける教え、そういうものを疑問視する観点はカトリックの教えを受けていたという他にこういうバックグラウンドがあるからだ。 特定の考え方の冊子の7月号のP19に面白い記述がある。冒頭の「ふさわしい場であれば~」の部分だ。またそれを踏まえてか同冊子のP17にはご丁寧に「どこで線を引くか」という題で○×チェックがついている。確かに早すぎる恋愛はいい結果を招かない可能性があるのは事実だ。 だが恋愛を過度に恐れ遠ざけてしまうと、その子が小さい時のままの考えで大人になり、そこで恋愛ができなくなってしまう場合がある。つまり経験の欠如だ。人づきあいとか恋愛とかいうものの距離感は経験でしか学べない。それを隔離された人がまともな恋愛ができる訳ない。逆に言うと親のお仕着せ以外の選択肢がなくなってしまう。つまり一生親の庇護に身を委ねるしかなくなってしまうが、親は子を生んだ年齢だけ早く逝くという現実を忘れてはならない。 ちなみにこの特定の考え方のやり方も実はある部分「花まる学習会」と同じ。やはり人に影響を与えるポイントは一緒だと感じている。 そういう子は「メシを食えて」も生物としての「生存競争」からは落伍してしまう。自然界は子孫を残せなければ負けなのだ。私も負け一歩手前だったが、医学の力などを借りてなんとかクリアした。結果は結果として様々な事情がある方々もおいでなので仕方ない面もあるが、その手前でわざわざ好んで落伍する必要はない。 下手な家族愛とか宗教感で子供の生きる力、持てる力、そして何より極めて優秀なのに世の中に羽ばたける力を削ぐことは許されないはずだ。私を説法した御仁は正にそういう環境下に身をおいてしまっている現実を知るべきだと思う。あなたが真に輝くには頼れるトナカイに乗って脱出するしかないということも。いろいろな事情はあるのかもしれないが、人生は歳を経るほど、後の後悔が先に立たなくなる。素敵な花が、本当の意味の華が単なるアダ花にはなって欲しくない。 同時にそれは我が子育てへの大きな警鐘でもある。親からすれば素直になんでも言うことを聞く子供は理想だ。それこそ反抗もなく礼儀も良く挨拶なんかもきちんとできるとくれば理想の良い子だ。 だがその理想の良い子というのは自我を猛烈に押し潰していると言う面を忘れてはならない。それはやがて人へベクトルが向く。どういう形で出るのか分からないが、私はある程度知っている。だがそれは決していい形ではない。結局は自分を落とすことになりかねない。 いろいろ難しい面もあるけど子供の自立とは自我を、自分を伸ばすこと。それを助け見守るのが親の役目だ。最後にそうそう5/4の帝国ホテルで紅茶を買っている私に、なんだけブスくれて床に寝転がって抗議した我が子に言った言葉で締めたいと思う。大勢のお客さんが温かく見ていてくれた。ありがたいことでした。 「あれ、寝んねしている子だあれ?」 自分で現実を少しづつ学んでいって欲しい。我が子にもあなたにも。
5月3日~4日、帝国ホテル東京へ滞在したのはgooで書いたとおりだが、帝国ホテルは他のホテルと違うところが結構あった。 まずバスタブ。意外と深さがある。今までのどこのホテルもそうだが比較的浅いためお湯を溜めてもたかがしれているので俗に言う浸かれない・・・。だがここではある程度お湯がたまるため比較的浸かれる。そこが嬉しい。しかもお湯は給湯が自動。さすが。 客室の照明なんかも当然集中コントロールできるが、ここはカーテンまで自動だった。 セキュリティーも万全。というのも各客室フロアに行くには必ずゲート(自動ドア)があり、フロアに入るには客室キーを通さなくてはならない。なるほど・・・。試さなかったが恐らく他のフロアでは使えないのだろう。キャッシュカードのようなプラスチック製の上質なカードだ。 ![]() しかし、そんなハイテクを見事に活かしているにも関わらず、時計だけはなぜかあの文字盤のアナログ。普通のホテルだとベットの脇の操作盤でモーニングなんかもBGMをセットできるし大体今の時計はデジタル表示。何かこだわりはあるのかな?ちなみに電池は充電できるエネループを使用していました。 次に驚いたのは冷蔵庫や食事(朝)。よくジュースにはトマトジュースが用意されているが、ここにはそれがなかった(なくてもいいんだけど・・・)オレンジかアップルに絞られていた。そこはコストの問題なのか?朝のアメリカンブレックファストでは大体いつもトマトジュースを他のところではたのめていたので少し意外だった。 アメニティーは他のホテルとそんなには違わない。ただハミガキのペーストが刺激が少ない甘い感じのものだった。我が子でも使えた!大体は口臭なんかに効く成分が入っているので多少刺激があるのが常なのだけどここはキシリトールを配合したものを使用している こうしてみると恐らくはその背景にあるのは「お客様への配慮」。 とにかくサービスなんかも全体を通じてそうだが、それが滲み出ているような気がする。これをさりげなく行うのは実は非常に難しい。改めてやろうとすると恩着せがましく見える可能性もあるからだ。そのためには常に周囲を充分に把握し且つ先回りしていなければならない。そこが大変なのだ。それを淡々とこなせているのはやはり一流だ。 一流と呼ばれるオークラ、オータニ、そして大阪のリーガロイヤルとは全く別の世界だ。 同じ接客業、同じホテル業なのに何が違うのかな?ただ各ホテルが悪いわけではないと思う。そこが不思議だ。外資系と呼ばれるところにはまだ行ったことがない。単価も高く、ポイントなんかも宿泊以外はたまらないなどあまりメリットもないのでしばらく行くことはないと思うがその比も興味はある。 3日にもgooで書いたが私も一種のサービス業。参考にできる部分もあると思う。 やはり人は体験したものでないとものにできない。言葉使いなどは訓練でもできるが、真のサービスには理由がある。その根底を理解しないと結局砂上の楼閣よろしく空虚なものになる。 サービス向上は奥が深い。 そんな帝国ホテル異聞でした。
今日の朝日新聞にアメリカ大統領選挙の共和党予備選挙の有力候補者ロムニー氏のことが取り上げられていた。 ロムニー氏は大金持ちでたびたびそうでない方々との観念の違いが問題視されているが、一番の泣き所は実は宗教なんだとか・・・。そうロムニー氏は末日聖徒イエス・キリスト教会(以下モルモン教)の熱心な信者であるそうです。 日本ではあんまり馴染みのないモルモン教。 コーヒー×、アルコール×などの厳しい戒律が有名だそうですが、実際はあらゆるものを犠牲にしてまで行うものではないようでごくごく普通の宗教って感じです。選挙については宗派としては中立ですが投票などは個人の信条に委ねられていること、結婚についてもそんなに否定的でない(むしろ推奨している)ところなど、新興キリスト教としては某「特定の考え方」とはだいぶ違うよう。実際はどうか分かりませんが、末日聖徒イエス・キリスト教会のHPでは他宗教への非難の言葉は見られない。 ただこのモルモン教は既存の教会からはかなり異端視されているようで、その理由が聖典たる「モルモン書」要は聖書の他に更に作られた聖典で、明らかに恣意的だというところが異端視の原因。でも聖書を書きかえるよりはいいのかな・・・。 まあ、キリスト教もいろいろあるけど、いわゆる拘束を強いていなければいいと考えます。 ただ、このモルモン教も収入の10%を寄付するような戒律や様々な集会などへの参加が多いのは少し危険かなって感じはしています。寄付は本来はその方の善意であるはずですし、集会への参加も本来ならその信徒が自ら欲するもののはずですので・・・。 しかし宗教って難しいですね。 ただひとつだけ言いたいこと、宗教には全てを超える力はないということ。だからこれを信じれば全てが救われるとかいうものは存在しない、これを常に念頭において頂きたいものです。神は公平ですが、公平であられる以上人知が一切及ばない公平が故の理不尽も存在するのです。それが神です。
いやあ、今月発表の某団体の研究記事は「過激」の一言。 ここまで過激だとお疲れさまと変にねぎらいの言葉をかけたくなる。 まるで「万国の●●●の●人よ団結せよ!」と共産党宣言の名文をパクリたくもなる。だが当該研究記事も共産党宣言も対立軸を作りたがるのは同じだ。その団体の主張だとそれは神と悪魔(サタン)だそうだ・・・。 私は神の存在は信じている。だが神を見た人もいない。同じく悪魔(サタン)を見た人もいない。敢えて言うとサタンのような罪人等はいる。 日本語で魔が差すという言葉がある。要は普段真面目にやっていた人が、突発的に悪事を働く際に使われる。横領なんかに多い。 人間は弱い。その弱さゆえにモラルを捨ててしまうこと、それが魔が差すの正体だ。サタンがそそのかしている訳ではない。今回の記事ではアダムとイブの創世記のくだりを紹介している。本来は完全な人間であり、永遠の命などを約束されていたはずなのに神の意思に逆らいサタンの罠に陥り、罪を永遠に負うことになった。・・・はあ。 人間は昔から老い、死、それを畏れてきた。時間の経過にはどうにも抗らうことはできない。 その無情さを納得させるために聖書では神の罰、東洋では桃源郷など目にどうしても見えないものをある意味でっち上げてきた。そしてそれを可能にするものとして神が存在した。だが神を信じればどうにかなるのか?だが救いは存在しない。祈りしかできない。そこにサタンが生まれた。神を信じても救われないのは神のせいではなくサタンのせい、それもある意味対立軸だった。人間はどうしても納得するために理由づけをしたがる。その産物が神でありサタンなのだ。 高等教育を蹴っても(P3)、青春の交わりから目を背けても(P13)恐らくそれは神の歓心を買うことはできない。人間としてどう生きるか、そういう意味では不道徳な性や浪費などを戒めるのはいいだろう。だがなぜそのために高等教育や青春の交わりが悪者扱いされるのかが分からない。結局、信徒をそうやって拘束して喜ぶのは神ではなく、この団体の主宰者たちだ。なんでもアメリカに本部があるらしい。 だがそのお膝元のアメリカはどうか?ある意味治安などでは日本より荒廃している。恐らく今のアメリカで彼らの教えがメジャーになることはない。人間は不完全なのだ。それを受け入れないと真に人間の心の灯にはなりえない。 明らかにこの団体は「聖書原理主義」。非常に危険! 聖書はこうだったらいいなあ、こうしないとこうなるよというのをいろいろなストーリーを仕立てて後世に伝えていくために書き継がれたもの。だがその書かれた内容を無理に解釈して神の言葉とし信徒に拘束を強いて、ひいては能力のある人の可能性を奪い矮小化してしまう。神に仕えると称して・・・自分が進んで信じたのならいざ知らず、親を通じて子供までコントロールしようとするのは正にカルトそのものだ。純真な子供は親に従い、親の歓心を買うためにけなげに振舞うが気付くとそこにはすっかりマインド・コントロールされた子供がいる。 そうして芽は摘まれてしまう・・・。 神の名を借り、神の名に値しない振舞い許せないと私は思う。いったいぜんたい誰がサタンなのか分からない。だが本当の神は可能性を摘むようなことはしない。人が可能性を教育などで伸ばし、多くの人にその恩恵を与えられることこそ神の喜ぶ道だ。 一方で怪しげな神の御名のもと拘束された子供をそれから逃れさせるためには、私が嫁様をしたように家から強引に連れ出すくらいの覚悟が必要だ。その子供の親になじられてもいいではないか。お互いを信じ、支え合えれば絶対に結果はついてくる。苦難だがそれだけの価値はあると思う。 力強いトナカイさんがいないかなあ・・・。
過日の昼間だ。 我が家のインターホンが鳴り、嫁様が出た。私はよく聞こえなかったが2~3分だろうか誰かと話していた。そして嫁様が最後に「ポストに入れておいてください。」 ???? 外を見るとブレーザーを着て見覚えのあるグレーのスラックス姿の男1名と、中年かな?私たちよりは少し年上の女性2人組が地図らしきものを見ながら歩いている。そう「特定の考え方」の方々だ。彼らが見えなくなり嫁様がポストに行くとまたも、 「イエスについてどんなイメージをお持ちですか」 という題のチラシが入っている。そして、 「聖書が何と述べているかを聞きにおいでください」 とあり、「2012年4月5日 木曜日」と書いてあった。「特定の考え方」の最大イベント記念式なるもののチラシだった。 イエスが王として支配している。そんな訳分からんちんな言葉が書いてある。 そもそもイエスはその「王」を拒否して磔にあったのではないか?世俗のちんけなものではなく広く人々を救うためのメシアであることを主張した。だがそれは世俗の王や当時の宗教学者などの存在意義を著しく否定することになる。だから危険分子として殺されたのだ。 「世のあるべき姿」と「人々の愛」を説いて説いて生涯説き続けて亡くなった。それがイエスだ。江戸の敵を長崎ではないが、時が経ってからそのイエスが世俗の代表格である王につくなどあり得ないと私は考える。 神は永遠の恋人のような存在。人々は絶対に近づき得ない存在だ。 そして神は存在しても、そこには一切の人為的な力は及ばない。地上に終わりが来るのも、人が最期を迎えるのも誰もあがらうことはできない。だが神は公平であられるため、えこ贔屓もされない。全ての人に同じようにされる。以前も触れたように人々は祈るしかできない。だが信心深く祈った人も容赦なく神は天へ召される。また大自然の前にはなす術もない。 終わりは必ずやってくる。それは聖書を読んだからと言って解決はしない。もちろん災害がなくなる日など永遠にやってこない。確かに今の地球環境にとって人間のあらゆる活動が負荷となっている現実はあるが、悪魔などという言葉で矮小化できるものではない。 一方で聖書は人がどうあるべきか、どう振舞うべきかは教えてくれる。終わりは解決できないが終わりまで生きる人々がその期間を有意義に過ごせることは教えてくれる。意味を取り違えてはならない。 小学校、高校生と2度ほど訳分からんちんな部分がありながらも通読したことあるが、今一度聖書を読んでみようかと思う。 彼らの言うイエスの死によって今の時代の人々の命が救われるという恐ろしく飛躍した論理がどこに書いているのかを確かめてみようかな。ちなみに私の持っているのは日本聖書協会の新共同訳というものです。
「貧困ビジネス」という言葉がある。例えばホームレスを集めて共同生活を送らせて諸経費として生活保護費から支払わせる。高くはとれないが出所が出所だけにとりはぐれはない。一時期社会問題となったことがある。貧困などで行き場を失った人にすればいろいろお手伝いをしてくれて、居住空間まで与えてくれれば御の字。そんな心理にうまく入り込んだ手法だ。そしてそこには確実に金になる仕組みがあるからビジネスとして成立する。それが「貧困ビジネス」と言われる所以だ。 消費者金融のグレーゾーン金利が全て遡及して「無効」とされたことにより生じた過払い金問題、実はこれも一種の「貧困ビジネス」と思えるくらいの盛況をなしている。 この過払い金問題を取り扱えるのは基本的に弁護士や司法書士。相手は裁判に完敗した巨大貸金業者。構図は簡単だった。しかも報酬は取り返した額に比例する。また相談料なども見込める。そのためやればやるほど儲かる。だから弁護士事務所のCMなんかが流されるようになった。過払い金問題を持ち込む人は過去に借金で苦しんでいる人。当然持ち込んだ時だってそんなに状況が良くなっているとは思えない。つまり困っているという構図は前述のホームレスの方々と変わらない。そこに利益を見出す点では「貧困ビジネス」と同じだ。最近はその報酬や手続きのトラブルも依頼者と弁護士等との間で増えているという。日弁連も注意喚起している位だ。実際に報酬や相談料は安くない。CMでも最後のほうで諸条件を画面表示しているところもあるが字が細かくて見れたもんじゃない。頼んでみてびっくりということもあるのだろう。 困った、困っている人を食い物にするビジネスが跋扈する社会は健全とは言い難いと思う。 だが確実にそういって需要がある現実を鑑みると格差なんかの問題が浮き彫りになってくる。日本も自己責任が全てというアメリカ化しているのだろうか? レーニンは名著・「帝国主義」の中で資本主義の最高形態のことを帝国主義と呼んでいる。資本主義の最高形態とは取りも直さず銀行家をはじめとする資本家が経済を資本=お金でもって完全にコントロールできる状態を指している。この上限金利問題で別に触れたことがあるが消費者金融では総量規制の適用があるのに、銀行ではそれがない。今日たまたま私が株主の某地方銀行のチラシを見た。堂々と「銀行の無担保ローンは総量規制の対象外です!」と謳っている。ここはバック業務(保証をかねて)はかつての消費者金融大手P社が行っている。つまり中身はP社の無担保ローンみたいなものだ。金利も上限は14.6%と決して安くない。 消費者金融なんかは自分で蒔いた種とはいえイメージが非常に悪い。それが影響しているのかどうか知らないが同じお金を貸すという行為に消費者金融と銀行の違いはあるのだろうか?わざわざ総量規制を外すほどの?そこは聞いてみたい。 もしこれが銀行を救済するための手段であるとすれば日本も国を挙げてお金の銀行への寡占化を進めているといっていいだろう。この寡占化が完成したときに帝国主義となる。レーニンは亡命のさなか名著・「帝国主義」を発刊した。当時はロシアのみならず世界全体で資本家と労働者の格差の問題が起きていた。今の日本も格差が広がっている。アメリカでも格差問題に対して解決を求める声があがっている。歴史は繰り返すのだろうか?これから当時のように混迷の世界にならないように期待したい。 人類は叡智を積み重ねてきた。人間を信じたい。 P.S 綾小路様、コメントありがとうございました。違うものを100%理解するのは難しいことでしょう。でも少しでもそれに近づこうとする努力は必要だと考えています。 時が変われば誰だって「できる人」→「できない人」となる可能性がある訳です。常に勝ち続けることは難しいと思います。今後ともよろしくお願い致します。
実は私は嫁様には惚れている。私の中では結構目をひく美人。そのせいか我が子は外見上私にまったく似ないでいて非常にありがたい。そんな嫁様も嫁様にしか分からないが、それなりに容姿等には悩みは抱えていたよう。私からすれば「へっ?」と言いたくなるが本人にとっては深刻だったらしい。 私はそういう嫁様を常に自分の中では励ましてきた。先週来た時に化粧品のトライアルセットを買ったのもそのためだ。やはりそれなりの人にはそれなりのものが良く似合う。嫁様がその妙な呪縛から逃れて活き活きとして欲しい。その一念で今まできた。 実は別な意味でさるお方へのアプローチをしたのもそこだった。 以前もどっかで書いたけどほぼ全てが完璧なさるお方に潜む小さな影、私はそれに気がついてしまった。知らない方が良かったのかもしれないけど私なりに考えた末にさるお方をその影から解放するアシストができればと考えた。 その影は確実にさるお方のいいところを蝕んでいる。その地雷を踏むと二○三高地のロシア軍のガトリング砲の雨よろしく容赦ないメッセージが飛んできたが私は例え屍を乗り越えてでも進むつもりだ。「デュペル(悪魔)」と言われても今後もそれは変わらない。形を変えて方法を変えて。 再度になるが、ふさわしい人にふさわしいものを、それが私の希望だ。 嫁様もそう、さるお方もそう、周りの人も同じだ。 誰であれ幸せになれるはずの人から幸せがスルリと逃げるのはみたくない。私はかつてそういう人を見ている。 銀座で行き交う人をみていて改めてそう思った。
私もかつてはgoo「できる人に」に出てくるブログの主やさるお方と同様な感じだった。 私は学生時代、結構名の知れた小中学生の塾や個別指導の塾で先生のアルバイトをしていた。 特に個別指導の塾は講義形式の塾よりも生徒のレベルがバラバラで指導が意外と大変だった。 その時に経験したのが「分かれない子」だった。本人は努力していた。ノートはきちんととるし、問題に取り組む姿勢は真面目だった。 当時の教務主任からは休み時間に「●●先生(私)が見習った方がいいんじゃない。」と半分嫌みを言われる位のきちんとした学習姿勢だった。だが理解が進まなかった。当然点数はどん底。本人も周囲の私を含めた先生方も自信を無くしかけていた。 ある時別な先生がふとしたことからきっかけを掴んだ。 その生徒も実は全体像が掴めないと理解が進まない生徒だった。そしてその全体像の中でこの 学習分野はどういう位置付けを持ってどういう事例に応用できるのか、そういうものを全て自分なりに解釈できてはじめて理解できるそんな子だったのだ。 つまり教科書やテキストどおりに教えていっても、それは点を教えているに過ぎず、点がつながらないので理解できなかったという訳だ。私は愕然とした。もともと他の先生から「見てもらえますか?」という訳で引き継いだ子だったけど、当時はガチガチな考え方だった私には気付くことができなかった。 あれからその子に会うことはない。今どうしているのだろうかと思う。 だがその子に会ったことで私は少し考え方が変わった。努力しても報われない人もいるし、努力にもその人にあった方法論があってそれを教えてもらえなければ(あるいは自分で発見)できなければ結局無駄な努力に終わってしまう。そういう現実を知った。 たぶんその子は飛躍的に点を伸ばすのは難しかったと思う。ただあの子の真摯な姿勢はきっと 別な形で花開くはず。私はそう思っている。だからどこかでは必ず報われると思っている。 あの子が机に向かっている姿勢、私みたいなインチキ(?)な教師の話をメモをとりながらきちんと聞いていた時の真剣な視線などを思い浮かべると、現実の非情さに涙が今でも出るが、あの子からは逆に私が教わった。ちょうど年齢的にはさるお方と同世代だった。 自分にできることは何かを考えていきたい。
goo「久しぶりの東京」の裏コメント。 私の大学時代の専攻は「マーケティング論」その中でフィールドワークといういわゆる動態観察の手法を用いて最適解を導く方法論を学んだ。銀座は学生時代にそのフィールドワークの舞台にもなっていたので、よく数寄屋橋公園界隈で野宿したりして銀座の人の動向線を観察し割り出した。 動向線、人の流れを無視すると思わぬ失敗になる。そんな現場を見たような気がした。 鳴り物入りで増改築オープンした銀座三越。ひところの混雑ではなかったが相変わらず混んでいた。デパ地下もまあまあか、そもそも銀座は松屋も三越もデパ地下の充実度は日本橋の高島屋、三越には劣る。あえて言うと松屋の方が斬新ではあるが安心感は少ない。売り場面積をそんなにとれないのも理由なのだろう。だが、目を疑ったのは地下1階に移った化粧品売り場だった。 今回の増改築でカギとなったのがこの化粧品売り場だった。三越は女性向け雑貨など自社の裁量が利く売り場構築ともともとゴミゴミしていた1階の狭隘感をなくすために化粧品売り場を思い切って地下へ持っていった。日経新聞では同業他社首脳のコメントとして「無謀」との報道をしていたが、三越側は地下鉄入り口との直結でかえって利便性が増すと反論していた。だが昨日行ってみると「たまたま」だったのかもしれないが、お世辞にも賑やかとは言いづらかった。どうしてか?やはりそれは動向線を無視した結果だろう。 百貨店、意外かもしれないが百貨店で今、ものを買う人は少ない。 GMS、専門店、通販などでいろいろものは手に入る。また百貨店だからといって質が大幅に違うわけでもない。例えばバック、その他小物にしても一度買ってしまえば、いらなくなるか使用に差し障りが生じるまで買わない。 ところが化粧品や食料品は違う。それ自体は消耗品に近いのでなくなれば補充が必要だし、やはり肌につけたり口に入れるものなので「見て・試して」から買うのに安心感を見出す。百貨店の対面販売の手法が一番活かせる部分でもあるし、そこだけはプチ贅沢もし易い部分だろう。 まず建物で地上の玄関から入る人は、大体「上へ」行く。次にデパ地下へ向かう人はエスカレータで地下2、3階へ向かう。そうすると地下1階はどうだろう。単なる通過場所になってしまう。地下1階へ行く人は目的意識がある人だけだ。では地下鉄の入り口のメリットはあるのだろうか?実は地下鉄からは直接地下2階へも行ける。つまり化粧品売り場に人が流れる以前に勤め帰りのミセスなどはデパ地下が目的なら化粧品売り場へは寄らない流れができてしまう。やはり通常のニーズは化粧品よりはデパ地下。デパ地下を中心に据えると人の動向線から 地下1階が外れてしまっているのだ。 同じ動向線といえば、やはり女性が意識するのはお化粧とそれに合わせた小物類。つまり総合的なコーディネイト、そういう意味でも化粧品売り場と小物類の売り場を離したのはニーズ という動向線を無視している。そして何よりも地上と違い、地下は天井も低いせいかなんとなく開放的な雰囲気が出しにくい。それがあの閑古鳥に反映しているのだろうか? 三越伊勢丹HDの浮沈をかけた銀座三越、アキレス腱はそこかな? もともと銀座三越は売り場面積が小さかったのを無理やり大きくした経緯がある。そのため企画する方も動向線には相当神経使ったはずだ。しかし化粧品売り場を地下1階に持っていたのは失敗に近いような気がした。 松屋はこの敵失を活かせるか?松坂屋銀座店も建替えを行うよう。また駅前のマリオンの旧西武部分にはルミネが立地するとか。いろいろ銀座を取り巻く環境が変わる中で人やものの動向線を押さえるところが銀座商業戦争の勝者となり得る。銀座三越も今一度見直した方がいいと思う。株主としてもそう思う・・・。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |