テーマ:ぶらり見て歩き(684)
カテゴリ:記録的風景写真
そもそも、お賽銭を投げ入れて で、手を合わせて そこで何を思うか。 何を考えればいいのかな。 たまに来ただけで 勝手にお願いごとをしていいのか、 ともかく とりあえず何かしら日ごろの感謝をして、 で、世の中が平和であるように というようなことを思う。 そして自分たちの暮らしの平穏が 続きますように、的なことを。 あ、 こういうことって 明かしたらあかんのやったっけ? いいやんな?別に。 お参りして手を合わせて お経テキなものを唱えたり 願い事を言ったりする そういう一連の儀式みたいな中で 人は心を安らかに保てたり 落ち着けたりするのだと思う。 そういう、本来 悟りでしか得られないものを 分かりやすく 誰にでも出来る形にするために 編み出されたものだと 勝手に解釈している。 戒律やしきたりを重んじる宗教も たくさんあるけど、 しかし それらの教えの本質は、どれも 自分自身の心や精神を 見つめるためのもの と、これまた勝手に解釈している。 神や仏の解釈は いろいろある。 実在したと思われる人を 崇める場合もあるけど でも真の意味で 神なり仏なりは 無であり空であり宇宙であり そして自分自身なのでは? などと考えたりもする。 (我は神の生まれ変わりだ!とか、そーゆんじゃなくてね。) 手を合わせて拝む・祈る といった行為は、 自分と神(あるいは仏、あるいは宇宙、あるいは真理)とを 繋げるツールのようなものではないか。 困難を乗り越えるには精神の鍛錬だ、とか ポジティブシンキングが大切だ とか言っても なかなか実践するのは難しい。 というか、何か問題があったときこそ あたふたするのではなく 心を静かに落ち着けて 自分自身をよくよく見つめる ということが大事で で、そのプチ悟りみたいなとこへ到達するには 何も考えず ただルーチンワークのように 手を合わせる→何か唱える→拝む みたいにすれば簡単なのだ。 と、昔のすごい人が 考えたんじゃないか と思う。 これも私の勝手な解釈。 なんかよく分からん宗教論だけど 一週間前の日曜の午後、 まると ずっとこんな会話をしていた。 HOME お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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