|
|
|
|
| HOME | Diary | Profile | Auction | BBS | Bookmarks | Shopping List |
|
│<< 前のページへ │一覧 │
早いもので、もう2年も前になりますが、 そのとき、本当に、偶然、気が向いて聴きに行って、衝撃を受けた、 イタリア出身の老巨匠といっていいアルド・チッコリーニ。 http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200803230000/ そのときで、すでに82歳を迎えていたので、 正直、もう一度聴くことがかなうとは思えなかったのですが、 この春、東京で3夜、豊田で1回コンサートをひらいてくれましたので、 ちょうど、土曜に豊田で開いてくれた、ただ一回のリサイタルに、 大阪から日帰りで行ってきました。 前回が余りにも奇跡的であっただけに、さらに齢を重ねた巨匠に再会に、 若干の躊躇はありましたが、 (「年の割りに」とか「全盛期を彷彿とさせる」とかではなく、 掛け値なしに「今、聴きうる最高の演奏(の1つ)」体験でしたので。) チッコリーニが近隣県で週末にリサイタルしてくれるなんて、モンペリエとかまで行くことを思えば、奇跡&夢のようなことでした。 というわけで、今回、早々とチケットを獲得(@3000円)して出かけた次第です。 今回は、 一応、聴き手としては知っている曲ばかり。 シューベルトのピアノ・ソナタD960と、ムソルグスキーの展覧会の絵 果たして、どちらも、チッコリーニは、自らが必要と思う響きや音量やテンポに対するイデアに妥協なく向き合い、演奏上の「事情」や「苦労」などをまったく感じさせず、また、迷いや不安も感じさせることなく、今回も、これらの曲の「表現」の限りを尽くしたのでした。 リストの折には「老巨匠だから遅めに設定しているのかな?」とでも油断させるほどにゆっくりと始まったものでしたが、今回のシューベルトも然り。ただし、今回は、こちらもチッコリーニの手腕を知り、また信頼もしている、、のが前回との違いでしょうか。 前回同様、必要とあらば、いくらでもテンポを上げ、また、ホール中の聴衆の息が止まるかのような精妙なピアニッシモ(pppp......)から、腹に響くほどのホールを鳴らしきるフォルティッシモまでを、響きや音の始まり・終わりを崩したり暴れさせたりすることもなく、「必要な音楽、必然性のある響き、音型」として、それがいかに本来はリスクのあることであっても、そのリスクを、プロフェッショナルとして、完全に克服し乗り越えた上での、プロの仕事として、提示してくれたのでした。 また、一部の音の美しさに酔い・溺れるというものではなく、 音楽として、何の無理もなくバランスのとれた、 しかし、十分に挑戦的で表現主義的な、柔軟にして堅固、潔癖にして能弁なシューベルト。 元々が、生きることを突き詰めるほど死をも考えずにはいられず、情愛や夢をたたえるほどに孤独と寂寥にとりまかれる、、、そんな風情のあるシューベルトですが、 そのありとあらゆる「襞」を、あくまでも、音楽そのものとして、説明的にも描写的にもならず、音は完全な「音」として慣らしきり、情に任せたアゴーギクや、音の崩し(始めと終わり)は一切なく、「完全な世界」「完全な音楽」「完全なピアノ」というものがあるとすれば、これではないか、、、と思わせるような演奏でした。 楽譜をきっちり見たことがないうえ、僕はピアノがまったく弾けないのですが、 漠然とした記憶では、普段あまり聴くことの無い、リピートもかなり(全部?)実行していたように思います。 こうした精妙な表現を行うにあたり、「ノイズ」は、音質上も、和音のバランス上も、そして、テンポ上も一切ありません。 「こうあってほしい」「こういうものであるはずだ」、、、そう思うような音楽が、確かに、ごくあたりまえのように、目の前に現れました。 それは、決して巨大伽藍のような大げさなものでもなく、しかし、結果、巨大なのです。といっても、威圧感は一切ない、巨大さなのですが。 展覧会の絵 は、シューベルトに比して、一般的には、さらに「響き」と「音量」と「テクニック」のまさに「展覧」の曲、、、というイメージがあろうかと思いますが、 こちらも、響きと音量の面で、やはり、非常に多彩なパレットを用いた演奏でした。 が、表現される世界は、シューベルトとはある意味対極。 そして、かなり、アクロバティックな場面も続出します。 さらに、最期に行くほど、体力も消耗するであろう「マラソン」的な曲でもあります。 マラソンではあるが、ゴール前1kmほどで、宙返りやジャグリングやちょっとしたジョークもっ交えながら、最期には、オペラアリアを詠唱しながらゴールする、、といったくらいの負担かと。。。 およそ「老巨匠」が選びそうな曲では、一般的にはないでしょう。 しかし、 骨太な大音量や分厚い響きが必要なときには、 そうした音が、迷い無く選ばれ、実在させられ、 また、「マシン」としてのピアノの性能が存分に活かされもしたのでした。 「永字八方」とは意味が違うかもしれませんが、 あの、リストの折に聴いた、ありとあらゆる、響きと音量を存分に展開し、実在させる技能とセンスが、このムソルグスキーでは、再び聴くことができたように思います。 恥ずかしながら、どうしても、ラヴェル編 で親しんでいるので、 ピアノ版ではところどころ、「ああ、そうやったなあ、、、」と思い出すような人間ですので、 ごくごく細部で、版や編曲との相違なのか、ある程度やむをえないミスなのかは、 判然としない部分もありましたが、 しかし、そうしたことも、音楽にはまったく影響を与えず、 本当に、聴き応えのある「展覧会の絵」でした。 シューベルトの深淵にせよ、夢や追憶にせよ、ムソルグスキーの万華鏡のような逍遥にせよ、驚愕にせよ、夢想にせよ、、、 それらの幅広い表現に際して、チッコリーニ自身が、常に、フィジカルな人間としては、 冷静でのめりこむことなく、姿勢も安定して、「ピアノをして語らせる」ことに徹しているように見えたことも、また、合理的なプロフェッショナルとしての理想をまざまざと見せていただいた気がします。 やたら、顔芸をしたり、身体中でパフォーマンスするでもなく、 必要な力学的な作用を、指を通じて、鍵盤に伝えるに際し、 必要な姿勢や動きを、腕・肩・背骨&足(ペダル?)から、必要十分に与える。 昔、オイストラフがヴァイオリンを弾いてる姿を見たことがありますが(もちろんヴィデオで) 彼もやはり、映像だけ見ていたら、何の曲を、どんな曲を弾いてるのか想像もつかないほど、まったく「良い姿勢」で、きっと「基本に忠実に」立って、弾いていましたが、 チッコリーニは、そのオイストラフと重なるイメージがあります。 また、こうした非常に「具体的」な演奏に対する姿勢と実現方法、 そして、 音楽に対し、必要な響きと音量と全体のイメージと、すべての個々の音のそれぞれの「始まりと終わり」への当然のごとくの厳格さ、、、は、 チェリビダッケの演奏を想いださせてもくれました。 彼もまた、聴きようによっては、「とにかく遅い」とかいう印象をもたれがちですが、 必要とあらば、いくらでもアップテンポも行いましたし、 また、 タタキつけるようなド迫力のフォルテの炸裂、、、とか、 音がつぶれて歪んで崩れる、アクセントやスタッカート、、、や、 エクスタシーを迎える忘我への本能的なアッチェレランド、、、 などとは、無縁の、 音楽全体でのイメージと、 各瞬間でのそれらを必然的に構成するすべての音の積み重ねを、 丁寧に、形作っていった人でした。 (実演に触れたことのない人では、ジュリーニも、もしかしたら、そんな音楽家だったかも、、、とは思うのですが、わかりません。) そういえば、チェリビダッケも、日本で突如もてはやされるようになってからは「ブルックナーの精神性」とか言われましたが、 しかし、プロコフィエフやムソルグスキー/ラヴェル、ミヨーなども、大好きでどんどん振っていた人でした。 「無類の音楽好き」で「響き~表現への探求者」でもあったのでしょう。 チッコリーニのアンコールは、1曲目が、意外や意外、 エルガーの「愛のあいさつ」でした。 本当に、混じりけの無い「歌」そのもの。。。。。 目頭が熱くなりました。 最後は、「火祭りの踊り」をやってくれるだろう、、、、と思いつつも、 ふと、 「ああ、巨匠は、この曲で、ぼくらに”さようなら”を言ってるのではないか、、、」 とよぎってしまうほど、美しい、やさしい、あこがれとなぐさめと愛情に満ちた、 「愛のあいさつ」でした。 ピアノは弾けませんが、きっと、楽譜があったら、 小学生でも弾けるような譜面なのかもしれません。 すくなくとも、「技巧的」ではないでしょう。 しかし、その曲を、本当に「ピアノ」であることすら忘れるほどに、 音楽そのもの、歌そのものとして聴くことができました。 そして、 最後は、お約束のファリャの火祭りの踊り、、、です。 前回と同様、何事もないかのように、姿勢を普通に正しながら、 必要なところは、腕を必要なだけ振り上げて下ろし、 必要なところは、指先を繊細に運動させ、 豪快にして、スピーティにして、熱狂的ではあるが、 崩れたり勢い任せなところはない、、、 火祭りの踊りでした。 が、同時に、「ああ、この人は、本当に、”音楽”が大好きで、好きで好きでたまらん人なんや!!!」と、しみじみと思い、ほとんど、ヤンチャな少年のようなほど「嬉々として」かつ「淡々と」弾く姿には、思わず、こちらが、笑みを浮かべずには居られませんでした。 ああ、しかし、チッコリーニ、、、なんと、録音に恵まれない人なのでしょう。 このファリャにしても、EMIに録音があり、ほとんど、同じ楽譜のはずなのですが、 そして、今よりも40年ほども若い「バリバリ」の頃の録音のはずなのですが、 自在感や自然さや天衣無縫さや響きの多彩さや均整、、といったものがあまり感じられない、普通にうまい人の演奏、、、といった感じすらしてしまいます。 実演で聴いたおかげで、大分、補正をして聴くことは可能なのですが、 友人に、チッコリーニってええで!!!って薦めたいときも、 たとえば、この録音を薦めることはかえって誤解を生みそうです。 EMIだから悪い、、、のかどうかはわかりませんが、とにかく、もっともっと録音がよかったら、、、、、と思わされるものが多々あります。 また、もっと早く聴きに行けてたかも、、、、(ただ、だからこそ、こうして、僕のような者でも、聴きにいくことができる、、、のですが) 前回も思ったことですが、 生きていくうえ、、、ましてや、仕事をしていくうえでは、 いろんな「事情」が存在し、、、それらはすべて、言い訳になりえます。 それも、単なる言い逃れではなく、 本当に、「正当な」言い訳にも。 しかし、自分・僕、、、として、 または、プロフェッショナルとして、 「コレ」が必要であり、あるべきである!! と「思う」のなら、 「ソレ」に近づき、実現させるための努力と工夫を重ねるべきであり、 あきらめる、、のなら、それは、それまでのこと、、、であり、 自分・僕、、が、心の底から想い・求めている、、、とまでは言えないものである、、、 ということ、、、 そして、 チッコリーニは、 超高齢、、、といってもよい歳になって、 しかも、長時間フライトをしてきて、 ありとあらゆる言い訳が可能な状態になってもなお、 こうして、最高の演奏をしようとし、事実、実現してしまいました。 プロとしての成算がなければ、来ないでしょうし、 また、プロとしての成算ができるまでの努力を、 日々(それこそ70年くらい!!!)続けてきてこその「本番」 であり、 この土曜の「果実」は、実に、文字通り「不断の」努力と意思の積み重ねの上での 咲いた花が結実したもの、、、である、、、、と つくづく思いました。 自分自身の「生き方」をも反射的に考えてしまう、 そして、稀有のお手本ともでもいうべき、 (決してチッコリーニは誰か他者に対して求めたり誇ったりするようなものではまったくないですが) そのような機会でもありました。
NHKサラリーマンNEOの「サラリーマン体操」でもおなじみのコンドルズの公演、 年末恒例の京都アートコンプレックスでのものに、昨日、夜の部、行ってまいりました。 コンドルズの公演は一昨年に行ったっきりでしたが、 昨年は、近藤良平さんのワークショップに、春と夏の2度、参加させていただく機会があり、 (1回もののもので、「合宿」ではないですが) TVサラリーマン体操での洒脱でコミカルな表現とも、 また、舞台でのちょっとマニア・固定ファン向き(?)というような表現とも異なる、 というか、 その基礎・根底となる、身体やそれを動かす意識への気づきと、その面白さを、 とても、具体的かつプラクティカルに面白くわかりやすく伝えてくれはるものでした。 子供も混ざった超初心者ばかりが相手でも、接するもの・出会う人・見る出来事のすべてに対して関心をもち、観察し、とりいれたり、反応したりしていく。 特に飾らず、尊大にもならず、かといって、不必要にへりくだることもなく、 一流のプロ中のプロに共通するものを、しっかりと感じさせていただける時間でした。 (これは、ぐん先生の演劇のワークショップでも常々感じることです。) http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200803080000/ http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200712210000/ そんなこともありながらも、昨年一年と今年の夏も、コンドルズの公演は行ってなかったのですが、昨日は、声がけいただいて、急遽、当日券を目指していくことにしたものでした。 開演1時間前から、当日券の整理券を配布ということで、その40分ほど前に着いたのですが、まだ11人並んでおられただけのようでした(あとでもらった整理券が12番やったので)。 突如、この2日間、やたらと行列ができるのが、地元の人からしたら興味深いようで、並んでる途中で、近所のヨガ教室「Yoga studio TAMASA」というところで、かなり専門的にヨガを教えに来日されてるというダンカン・ウォンという方がその教室のおそらくは先生がたと思いますがお二人ひとなつっこくも上品な女性お二人と共に、やってこられたカタコトの日本語と英語で、何の行列なの?とか、コンドルズって?とか、訊ねてこられました。 このダンカンさん、ヨガ界ではかなりなスゴい先生とのことですが、とても気さくで、 (& 女性ずき・・・実際僕の前に並んでたお二人の女性もまた気さくでかつとてもチャーミングな方でしたので、まあ当然、、、か、、、 viva! globalism! viva! nature! ) おかげで、並んでる時間も結構おもしろかったです。 コンドルズや近藤良平さんの説明が結構難しくて、 サラリーマンNEOで、ヨガの先生は大変納得してくださいましたが、 ダンカンさんには、近藤良平氏は振付師でダンサーでTVにも自ら出ていて、ダンスやコントもやるユニットで、大野和士とともにストラヴィンスキーの火の鳥で子供向けのワークショップもやるなど多彩な活動をしている、身体表現グループだ、、、みたいなことを、口々にお伝えしました。 このダンカンさんも、また、一緒にこられたヨガ教室のお二人も、とっぷりお話させてもらえたら、かなり面白そうでした。 先の近藤良平さんや、ぐん先生とも共通するなにか、ホンマもんを自分で突き詰めてはる人独特の、物や人に対する懐を感じた気がしました。 公演は、このアートコンプレックスの公演がとくに、表現される身体サイズに合ってるのかもしれませんが、とてもみやすいものでした。 各演者のキャラクターを知ってるからこそ笑えるような「固定ファン向け」ギャグとか、 猥雑な学生演劇風のテイストなどもあえてまぜながらの舞台ですが、 とにかく、 「身体をつかって、どんなことでも、どんなようにでも、表現してみよう!!」 みたいなのがコンセプトというように、僕は受け取って、かなり関心して、 あっというまの時間をすごすことができました。 また、以前見たときよりも、「固定ファン向け」の比率が減った気もしますし、 全体を通しての統一感(をあえて目指してないのは承知のうえですが)も あって、僕としては、素直に楽しめました。 ものすごく、身体のキレ、意識した動きが徹底している人から、 そこまででもない人まで、混ざりつつも、 それらが総和となっておこなう「表現」は、とくにこの会場の大きさで効果を発揮するように思いましたし、 また、 熟達した方の動きは、本当にスゴいものでしたし、 また、 それほどでも、、という方でも、もちろん、一般の人間ができるようなことではないことで、 「創造過程」が垣間見られようで面白かったです。 (「それほどでも」という言い方は失礼でもうしわけないですが、 それぞれに、得意分野をお持ちだけれでも、それがメインになるパートのみならず、 あえて、超得意分野以外のものにも、挑みながら、、、という面があるようだと感じました。) 「振り付け」や、舞台での位置どり、、、も、 ある意味、内容がシンプルで、とくになにかのメッセージ性があるわけでもない、、、という舞台だからこそ、面白くみることができました。 また、意外というか、あとから考えたら当然というか、、、 コント仕立てで「ジェスチャーゲーム」をやる、、という半ば「大切り」があったのですが、これが、さすが、日々、身体表現をしている人たちどうしのものなので、素直に、実は、すごい「地力」が出ているなあ、、、と、かなり関心しました。 (もし、たとえば、自分がやるとしたら、、、とか想像したら、ただ肉体を鍛錬してないから、、、とかの問題じゃなく、身体に対する発想と、ものごとの表現、、、、のイメージそのものの「ひきだし」がやはり違うなあ、、、と。) コントでのキャラの立たせ方などや、 終演後の盛り上がり、交流ぶりについては、 かなり、男性のみからなる(かならずしも眉目秀麗な人ばかりではないが「実はスゴい」という男性)集団を、女性が安心して応援し支持し夢中になれる、、、という場 という面もかなりあるようで、 (コンドルズとその客層の男女の性別を逆転させて、 「20~50代の女性がセーラー服を着て踊ったりコントをしたりするのを、 何百人もの男性客が詰め掛ける、、」としたら、 社会的評価、、、、は、火を見るより明らかですしね、、、、) そういう面では、「女子更衣室に紛れ込んだ」ような感覚を受ける面もありますが、 (↑あくまでも比喩です、リアルで紛れ込んだことはありません。 ましてや、もぐりこむなんて、、) 舞台を見ている間は、そうしたこともおおむねなく、本当に普通に「身体の表現の実験・博覧会」的意味も含めて、楽しめました。 ワークショップに参加させていただいた体験があることも、アクセスしやすい理由のひとつかもしれません。 久々に見て、やっぱり、この京都公演は、見る価値があるなあ、、、とあらためて思いました。
今年も、もう、年末、、、 年末といえば、日本では、バイロイトですね? (←「ね」は余計) 永年、NHK FMで、年末になると、バイロイト音楽祭の録音を続けざまに流してくれます。 あまりに毎年のことなので、結構、ただ聴き流し、、、になるのですが、 過去には、「幻」のショルティがただ一度だけ振った(CDにもなってない)年もありました。 で今晩は、ニーベルングの指輪 の序夜「ラインの黄金」 恒例のライトモティーフのファンファーレが3回まず鳴り響きます。 会場でも実際に、開幕を告げるために吹かれるそうなので、 以前は、そのライブっぽい音が流されて(ファンファーレは戸外なのですが)、 あと、バイエルン放送協会のアナウンスがそのまま流されてから、 日本の解説に、、、という流れだったのですが、 久々に聴いてみると、 モロにスタジオ録音風のファンファーレのあと、日本の解説が入って、 あと、NHKが最近よくクラシック番組で使う、 モロ「電子音」のよくわからんファンファーレが入る、、、というやや雰囲気的に イマイチな感じになってました(←コレは、どうでもいいことなんですが)。 その気になれば、今は、バイロイトの音は、ネットでリアルタイム(夏、、の日本時間の真夜中)で聴くことすらできますが、PC経由の音は、どうもニガテです。。。。 ところで、 バイロイトの過去のライブは結構、CDにもなっていて、 時代によって、録音条件もさまざまですが、 おそらく、会場の構造や特性にもよるのでしょうし、 曲の大層さにもよるのですが、 おおむね、大柄で、力技的な演奏・録音が多いような印象があります。 厳格で均整のとれた筋肉質の演奏、、、と賞されるカール・ベームの指揮した「指輪」も、 正直、かなり、荒れたアンサンブルを、太線の輪郭で囲い込んだ、、というような演奏に 聴こえます。 金管のフォルテでの、カンニングブレスなども、各奏者のピッチや音質がバラバラなので、継ぎ目がモロに出まくっていて、また、音を「後押し」するのが下品で「もたれる」印象もあり、なかなか、全曲聴きとおすには僕はつらいものがあったりします。 「迫力!」はまあ感じるのですけども。。。 曲をすっかり慣れてしまってから聴くと、また楽しめるのでしょうか。。。 しかし、ここ数年のバイロイトのライブの音は、FMで聴いても、過去の録音のCDに比べても相当にスッキリした音質とアンサンブルになっている気がします。 マイクの配置にもよるのでしょうし、やっぱり、オケの国際的な水準が上がっているのでしょうね。 今日、さっと、耳にした「ラインの黄金」は、実際はどうか知りませんがイメージ的には「ネオナチ?」みたいな「独逸民族復興!!」っぽい容姿と演奏をくりひろげがちなティーレマンが指揮したもの。・・このイメージは何の根拠もなく、彼のやや古風な「芸風」とワーグナーを特に得意にしているとこあたりからのイメージにすぎませんのであしからず。。。。 (ちなみに、日本の「右翼」やまた妙にはやってる「教科書が教えない歴史!(日本軍は侵略はしてない、、とか、戦闘員しか戦闘してない、、、とか、、)」みたいなある意味ノンキな状況と違って、ドイツでは、「ナチ」は深く刻まれた罪であり悪というのが共通概念なので、社会的に逸脱してない立場の人間が、気軽に「ナチ」を気取ることは実際にはありえないようですが。) 今日の「ラインの黄金」、冒頭の和音からして、とても、クリアです。 「あいまいな原始」のイメージはむしろありません。 弦の刻みもまた、そろっていて、これまた「靄」のようなものではなく、音符が見え、また、「拍」が見えるものです。 そして、音が積み重なって生み出すライン川の波の高まりから、飛び出すラインの乙女の第一声の音程と歌詞の明確なこと!! そして、音楽はまったく弛緩せず、かといって、暑苦しい混沌にうずもれることもありません。 低弦やホルンなどは、劇場の特性からか、ある程度、こもった感じはあって、 たとえば、ベルリン・フィルがコンサートホールで演奏するような、マルカートなエッジは見えないものの、決して重くならず、音のボディはクリアです。 ワーグナーの楽劇は、歌詞をすべてちゃんと追って聴いてないままに、聴く回数を重ねてるので、理解が浅く、客観的に音楽的な内容についてほかの演奏と比べることはできないのですが、印象としては、このティーレマンのワーグナーは、案外、「主旋律」を各場面で、ほぼ常に確保し明示していたように思います。 ラインの黄金が、「トリスタン以前」の曲である、、、、ということにもよるのかもしれませんが、ワーグナーの比較的分厚いオーケストレーションにあって、このある種の「歌謡性」と「響きのヒエラルキー」を重視した演奏は、特徴と言える気がします。 ただ一回、FMで聴いて判断するのはよくないですが、すくなくとも、今日の演奏を聴いて、「劇場人」としてのティーレマンの手腕の確かさとカリスマ(オケや歌手をまとめて長大な音楽を構成する)をたしかに感じましたし、人気があるのは、単なる懐古趣味ではないなあ、、、との思いを強くしました。 (でも、この人のベートーヴェンは、以前聴いた範囲では、懐古系やったんですが、、、今はどうなってるでしょうね。) しかし、長時間で過酷なはずのバイロイトでのライブでの、オケの精度は驚嘆すべきものがあります。(昔の録音と比べて、、、) とくに、金管楽器では、少々、落ちたり、また、受け渡しでのピッチのズレなどは、「劇場らしさ」のウチ、、、という時代は、もうすっかり過去のものとなったようです。 本当に美しいです。 美しいバイロイト、、、、ワーグナーもきっと満足することでしょう。 まさか、「日本」で毎年、それも「年末」に放送されるようになる、、、、とは夢にも思わなかったでしょうけども。。。 明日のワルキューレを経て、「トリスタン以後」の作品である明後日のジークフリート、日曜の「神々のたそがれ」では、どのようなアプローチになることでしょう。楽しみです。 それにしても、 「歴史観」ではないですが、日本からワーグナーを聴くには、とくにナチもホロコーストも意識する必要もないのですが、ドイツでは、当然に、自国語で大層な「伝説」なり、シュプレヒコールに近いような音楽が数時間にわたって説明的になり響き続ける「ワーグナー」は、「音楽愛好者」が皆、素直に「楽しめる」というものでもなさそうです。 外国語で言葉の意味が、リアルにはようわからんから、かえって聞きやすい、、、ということはあるのかもしれません。 ナチが政治利用したのももちろんですし、ナチ以前、、、から、ヨーロッパの「ゆるぎない伝統」としての「ユダヤ人蔑視」があったこと、、、その「基盤」の上に「ナチ」という「花」が咲いた、、、ということ(ナチが総選挙で正当に政権をとった=国民の"民主的"支持に基づいた政権だった、、、ということもあわせて)、思い起こさせるのかもしれません。 戦後は、そうした政治利用やある意味「人工概念」である「民族」というもの(ドイツ民族にせよ、日本民族にせよ、、、)の色を廃した、抽象的な演出とある意味無愛想な(即物的な)演奏を特徴とする「新バイロイト様式」の時代を長く経て、今、保守回帰というよりは、ある意味ようやく、過去の経緯と決別して、堂々と「ドイツ民族なるもの、、、への憧憬」を真正面からとりあげても、「音楽は音楽」と思えるような時代をドイツは迎えつつあるのかもしれません。 それは、ドイツという国が、「音楽」とは別のこと、、、、すなわち「政治」や実生活の面での過去の「罪」をオフィシャルに反省し、清算しようと努力を続けてきた、、、ということによるのかもしれません。 とくに「西」において。。。。 余談ながら、、、過去の歴史にフタをし、責任を回避してきた「東」の状況は、ちょっと、「日本」に似てるかもしれません。 そうした日本だからこそ、、、 小泉~橋下~小沢~が「ナチ」と似ている、、、いうのはもちろん失礼ですし、言うべきではありませんが、 ただ、投票行動に結びつく「民衆」のメンタリティや、また政治家側が「民衆」を扇動・誘導するノウハウとして、 「弱者」「悪者」を規定する立場をGETして、タタく側になることで「安心」を与える、、、 という形になっていることは、期せずして、ナチの政権維持と似たメカニズムになっていますので、これからますます日本は「過去」をむしろ拡大して繰り返そうとしている、、、のかもしれません。
今日は、先日の、1万人の第九で知り合いになった方が参加しておられて、 また、指導くださった清原浩斗先生とピアノの矢吹直美先生が出演(指導)する、淀川区一千人の第九に行ってきました。 淀川区民合唱団が母体になっている催し、とのことです。 1万人の第九の本番の日以来のメンバーが舞台の上で活躍しておられるほか、 終演後には、客席にも、おなじクラスの懐かしい仲間とも再会できて、 客席と舞台でのつかの間の懐かしいひと時でした。 合唱のコンサート、とくにアマチュアの合唱のコンサートはかなり久々でしたが、 「一万人」に慣れていた耳には、 比較的少人数の合唱団(といっても100人くらいは居てはるんですが、、1万人と比べて、、) として練習を積んでいる合唱の響きは、 とても、新鮮でした。 年齢構成からいえば、むしろ高めでもあるはずなのですが、 音程も、また、声の響きも、よくそろっていて、「ひとまとまりのチーム」の響きがします。 第九が、とくに、自分が歌い、また参加した曲なので、 とてもリアルに違いが感じられて、優劣という問題ではなく(まあ「優」なんですが、、、) 素直に良い曲やなあ、、、、って、思いました。 アマチュアのコンサートらしく、かなり長時間の舞台だったのですが、 冒頭に、第九の独唱者4人がそれぞれアリアを披露し、さらにあのリゴレットの4重唱 というところからのスタートでした。歌手はそれぞれに特徴があり、いずれもナマで聴けてありがたかったです。 女声はとくに出色で、やや直線的な歌い方ながら若々しい澄んだ声のソプラノが歌うプッチーニに、倍音を多く含みまたオペラの場面を一瞬でその場に「降臨」させるかのようなアルトの歌うマスカーニは、なかなかのごちそうでした。 そして、それぞれの歌手の特性や曲の個性にごく自然に寄り添うかのようなセンスに満ちた「呼吸するピアノ」を弾かれたのが、一万人の第九のレッスンでもずっと支えてくださってきた矢吹直美先生です。 それぞれほんの短い曲なのに、プッチーニはオケで聴くあのプッチーニらしい響きと艶と「泣き」が、、また、ヴェルディはヴェルディで、特有の旋律の背後で8分音符がうごめきながら「メイクドラマ」してしまう、ヴェルディ特有の語法が、くっきりとたち現れてきたのにもびっくりでした。 フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」では、バリトン独唱がややおおらかな歌いっぷりでしたが、それをピシっと「枠組み」を与えつつ、あの第一幕の幕切れ前の高揚が再現されました。(個人的にはこの曲をFMながら生まれて初めて聴いたベーム=ウィーンフィル(&プライ)の演奏のオケ部分がなぜかリアルによみがえってきました。・・・これは単純に似た演奏という意味ではないのですが。) ずっとそのセンスや感受性そしてそれを音や音楽にする力に感服してきたのですが、 今回、舞台の上の先生の音楽が聴けたことは、このあとの合唱のパートでの、これまた、音量の選択も含めて、ごく「あたりまえ」のように、ものすごい柔軟性を発揮しながらの演奏と合わせて、今年をしめくくるすばらしいひと時だった気がします。 (先の1万人の打ち上げの折には、サインをいただいたスコアは永久保存版!!です) 続く舞台は、清原浩斗先生の抜群の構成に支えられた一体感のある楽しいものでした。 それにしても、冒頭にも書きましたが、 先生の合理的な指導と団員の皆さんの研鑽によるのでしょうが、 本当に、よくまとまった「合唱団」としての響きが心地よかったです。 第九は、オケは無いので、矢吹先生のピアノに、エレクトーン、ティンパニ、そしてパーカションの伴奏なのですが、これがまたとても、きれいで、かつ「アンサンブル」していて、新鮮でした。オケ編曲はかなり技術的にもムリがかかるだろうと思うのですが、鮮やかでした。 また、鍵盤楽器が2つというのも、いろいろと不都合がアンサンブル上出やすいと思うのですが、これもそんなことは一切感じさせず、プラス要因のみが届いてくる、、、というものでした。 それどころか、声も合わせたアンサンブルの要ともなっていて、途中、独唱4人がおそらくバスの方が走ってバラケそうなところがあったのですが(たしかに、比較的難所なのですが)、ピアノがさっと、合わせながら、「引き戻し」をされたりと、八面六臂の大活躍でもありました。 終演後の仲間や先生との懐かしい再会で感じたのは、「一期一会」ではあるものの、やはり、一緒にひとつのものをつくりあげるために、一緒に苦労して積み上げる、、、ってすばらしいことやなあ、、、ということでした。仕事でももちろんやってるんですけどもね(組織的な妨害や悪意とかと戦いながら、、、)。でもやはり「別のチャンネル」で、、、 それがまた、再会してみて、「仲間」という気持ちを素直にお互い湧き上がってきたこともうれしかったことでした。 合唱って、実際には、団に属してやったことはないのですが、 オケのホルンに復帰は実際問題、もうムリでしょうし、かなうことなら、合唱はやってみたい、、、と思わせてくれる、そんなすばらしい、それでいて「普段着」なところもちゃんとある素敵な演奏会であり、機会でした。
大分前に購入しながら、しっかり聴く機会がなかった、 カラヤンの若いころ、モノラルで、イギリスの当時の新設オケ「フィルハーモニア管弦楽団」とのベートーヴェンの交響曲全集から、「田園」を聴いてみました。 以前にも、何度か聞いたことはあって、 「晩年と違い、若いころのカラヤンらしい颯爽とした演奏!」 という記憶があったのですが、 聴き返して見て、 なんとも、ありとあらゆる「田園」の演奏録音のなかでも、 本当に、すがすがしい、清涼感にあふれた演奏に、驚かされました。 まず、第一に、カラヤンの演奏の大半につきものの「レガート」の多用がみられません。 かといって、トゲトゲした「トスカニーニ風」でもなく、 まるで、シルクのような音の表情をもつ弦や管楽器の演奏が印象的です。 また、管楽器どうし、弦と管の受け渡しが、とても、緊密で、かといって、 堅苦しくはない、まさに「あるがままにある、、、」、、、Let it be とでもいえる演奏です。 そして、 テンポがまた、とても、違和感がまったくなく、きれいに流れます。 澱んだり、タメやコブシをきかせたりはしない、、、、 でも、かといって、 あっというまにサラサラ流れてしまうでもなく、歌心は十分なのです。 ホルンのトップは、伝説の名手デニス・ブレインだと思いますが、 とくべつに、でしゃばることはなく、 まさに、理想的な調和の中の演奏です。 音質も、後年、かなり問題の多いものがおおいEMIの録音ですが、 とても、美しく(ステレオではありませんが) 1953年の録音とは思えません。 こうして聴くと、フルトヴェングラーの録音が、彼自身がマイクセッティングとかに 口出しをしすぎたのか、 同年代では、きわめて、質の低いものが多い、、、ということがわかります。 これだけの演奏をすれば(また、きっと、かなり合理的かつ効率的なリハーサルをしたはず) それは、文句なしに、 フルトヴェングラーの後任として、ベルリン・フィルに迎えられるだろう、、、、と思う、、、 そんな演奏です。 もちろん、モノラルですから、「初めて聴く田園」としてのオススメはしませんが、 ある程度、田園はいろんな演奏で知ってるよ、、、、という方には、 一聴の価値はあるかと思います。
今年も、本番がおわりました。 去年、初めての参加で、今年が2回目。 夏からの12回、、、 コンサートの本番をヤル!!という意味では、決して多くはない回数ですが、 日常、音楽活動をサイクルに入れてない人々(僕も含んで)からすると、 結構、いろいろと「やりくり」しないとクリアできない回数ではあります。 ただ、 ノルマ・義務、、というよりは、 ちゃんと、専門の先生に合唱を教えていただき、 それを、もともと、知り合いでもなんでもない人たちと「一緒に!!」歌って練習していく、 という機会は、本当に、ありえないほど貴重でありがたいことです。 今回参加したのは、大阪Cクラスというコース。 今年、奇跡的に、社会人生活20年で初めて、平日の夜に予定を入れてもやりくりできる可能性が生まれたので、今年を逃したらもう一生機会はない、、、と、思い切って申し込んだのでした。 12回3カ月はあっというまでした。 教えていただいたことは、できたりできなかったり、、、ですが、 その場でできなくても、あとで思い返して、どれだけ、実践しようとするか、、、、 である、、、ということは、 今日、あらためて、思いました。 リハまで声の調子が最悪で、全然出なかったので、ファルセットとウィスパーで半分くらいを済ませながら、本番に賭けたのですが、リハから本番までにとにかく冷静に、これまで先生がおっしゃったことを、今一度、思い出して、やってみたところ、十分、、、とはいえないものの、なんとか、「舞台の声」で大分と参加できたのでした。 普段からどれだけ意識するか、、、で、きっとこれからも大きい違いが出るねんなあ、、、と改めて、、、、 細長く巨大なホールの特性は、時差を生じるなど不利な面も多く、 とくに、女性(女声)の方々は、人数が多いこともあって、 歌いづらい場所で御苦労された方も多かっただろうと思います。 それにしても、 今回の本番、合唱の主旋律が初めからドンドン、テンポが走りかけた場面はあったものの、かなりの程度、リハも含めての指揮者や先生の指導に基づくイメージが共通の「核」となって、本当に「一万人の第九」になった気がします。 あと、テンポが走ったときに、指揮の佐渡さんが、速い方のテンポを選択してまとめてくださったり、かなり、アグレッシヴな演奏へと導いてくれはった気もします。 本番のあとの打ち上げも、200人を超えるメンバーについて、人数のとりまとめやお金の管理だけでも大変だったでしょうに、幹事を引き受けてくださった方々の本当に「献身的」な努力と世話をいただいたおかげで、その200人がみんな、実りある本番をさらに、高めて、楽しく、心に残る体験にできたように思います。 (予防注射の2回接種みたいなものかもしれません) 清原浩斗先生のご指導の具体的な視点と目標を提示しながら、肉体的なイメージづけを根気よくしてくださる熱意とスキル、それに、多彩な表現と、よい意味での前向きな社交性、そしてもちろんパッと周りの空気が晴れるようなきれいで力づよい響きに満ちた声、 また、 ずっと、状況に応じて、きめ細かく各パートのバランスを加減したり、「ブレス」や「フレーズ」がまるで「息をする生き物」のように見事にしかも優しく歌いやすいようなピアノを弾いてくださった矢吹直美先生、 また、佐渡裕氏の超多忙な中でのほとんど「混沌」に近い状態から、「核」を与え、具体的な「表現」にまで導き、実際に形にする手腕(&本番の臨機応変!)、 そして、そうした状況にまた短時間で機敏に、技術的フォローをしてくださる合唱指導陣の先生がた、、、 さらには、1万人の「群衆」を短時間で、トラブルなく、大イベントの「主人公」にちゃんともっていく運営スタッフの方々、、、 ひとつのことをなしとげるにあたり、本当に多くの方々の努力と熱意があってやっとできることなのだ、、、と心から思いましたし、 また、あらためて、多くの才能、熱意、誠意、、、、そうしたことを、合唱、音楽、運営、それに「打ち上げ」まで、本当に、感謝とともの、心に染みいる、、、そんな体験のできた「第九」でした。
ショパンのピアノ協奏曲といえば、「ピアノはスゴいが、オケ部分は習作程度で退屈」扱いされることが多いような気がしますが、 かねてから、 ツィメルマンが、自分で編成したオケを振りながら弾いた録音が、とても面白くて、オケ部分も、活き活きとしている、、、、という評判を耳にして、 何度も何度も、CDショップで手にしながら、結局、今まで、買うことも聴くこともなかったのですが、このところのピアノブーム(自分の、、、です)に乗じて(?)、今回、ショパンボックスに入ってるのを聴くことができました。 この曲、オケ部分も含めて、実は、かなり大好きで、聴いていると涙が出そうになることも多い曲です。とくに1番は、クラシックを聴き始めてすぐの頃、フランソワ・デュシャーブルというピアニストが、大フィルと共演したのをナマで聴くことができたもので、当然、新鮮なその頃の脳で聴いてるので、沁み込み度合いも大分違うものです。 とにかく、美しいし、「夢見るよう」なメロディが音色(主に木管なら木管、弦なら弦)にピッタリのように僕には思えます。 実際に弾いたり吹いたら、面白くないのかも、、、とも思いますし、ピアノが専ら弾いてる間は「背景」っぽくって、そのあと「合いの手」っぽいのも、「習作っぽい」と言われる所以かもしれません。 で、この演奏、冒頭から、テンポをグっと落としながら、一小節、一拍ごとに、強弱や表情をつける、、、という「濃厚」な始まり方で、「!!」と思わせます。 こうした「コントロール」感はずっとあるんですが、しかし、オケ全体が歌ってる、、、という感じで、レチタティーヴォっぽいともいえるし、「歌詞つき」っぽいような表情ともいえるかもしれません。 また、各楽器の音色が、それぞれに「色」を出していて、混ざって溶け込むよりは、それぞれが室内楽のように存在をはっきりと見えるように、参加し、歌います。 しかし、濃厚でも、リズムはとてもハッキリしていて、全てのフレーズもくっきりと演奏されるので、テンポ・リズム・推進力といった面で重たい感じはしません。 そして、やはり、ピアノが入ってくると(この協奏曲は、古典的な形式で始まるため、まず、主題をひとしきりオケが演奏してから、ピアノが、主題で入ります。)、 クリアな音質、オケ同様(!)クッキリしたリズム、響きのピアノが、白銀の艶とでもいうべき音楽を、ぐんぐんと進めます。 ツィメルマンのこの曲の演奏は、実は、FMを通じては、有名なジュリーニと入れたLPや、サロネン指揮のバイエルン放送交響楽団とのライブなどで聴いてはきたのですが、FMのせいなのか、あんまり、そうした彼の「音」について印象を持ったことはなかったのですが、 とても、流麗でクリアで「傷」や「バラつき」の無い音は、快感といってよいほどです。 といっても、先のホロヴィッツのような音とは無縁に近い、ショウマンシップとか演奏効果を狙った響かせ方とは違う、音楽の形をくっきりとうかびあがらせるためにノイズを完全に排した、、、、というような音です。(もちろん、そういう「演奏効果」を意図している、、、のでしょうが) この曲、いつもは、かなりサラっと聴ける場合がおおく、また、ちょっとオケに不備がある演奏だと、極端にいえば、「もっちゃりしたオケは、置いて、ピアノ部分だけに集中する」みたいな聴き方になることもあるのですが、 とても、面白く、スリリングでいながら、とにかくこの「歌」に惚れて演奏してる、、、 その惚れ惚れ感、、、がとても小気味よい演奏でした。 その分、「ずっと旅に同行する」という感じもあり、 かなりな「満腹感」を得る演奏です。 こうした演奏を「何度も」聴くかどうか、、、(回数としては何度も聴くと思いますが、たとえば、今の印象が残ってる間に、何度も聴くかどうか) となると、やはり、その情緒的な表現に同調した体験が残っている間は、しばらく聴かない、、、かもしれません。(飽きる、、という意味ではない) その意味では、音楽は、昔は全て、「ライブ」のみ、、、だったのだ、、、ということにも気付かされます。 これはたぶん、いわゆるセッション録音と思いますが、ある意味、ライブっぽい内容を十分に持つ演奏でした。
ホロヴィッツは、ちょうど高校時代に、 あの、伝説の5万円チケット、ボロボロライブ、、、にTVで遭遇して、 (あんまりピアノに詳しいわけでは、今でもないですが) やたら、局所的に豪華な音をババンと鳴らすが、 曲の原型がわからんなあ、、、、 という印象をもったのが、意識した最初でした。 (その後、このライブは、彼が薬物投与を受けていた影響が大きく、 また、実際のそのライブは酷評されたとのことですが。) が、その後、過去の録音をいろいろ聞く機会がそれなりにあり、 また、「母国」ソヴィエトへの里帰り公演が、 きれいな響きを活かした演奏で聴けたりして、 やっぱり、「巨匠」というイメージはもっていたのですが、 (ただし、ジュリーニとのモーツァルトの協奏曲の録音風景をみて、 どうみても、子供じみた変人、、、、というイメージも、、、) 彼のCDは実際には、ラフマニノフのピアノ協奏曲の3番とソナタの入った1枚を 持っているのみでした。 そんなところへ、このところ、ナマのピアノの響きに圧倒される体験を 何度かしてきたところへもってきて、 ピアノ曲のCDそのものもあんまり持ってないことから、 ホロヴィッツボックス(1枚あたり300円弱)を買ってしまい、 昨日から聴き始めています。 1枚あたりが昔のLPと同じ、というつくりなので、 結構、これが心地よく聴けます。 分量が、結構、ちょうどなんですよね。今にしておもえば。 昨日聴いたのは、 ホロビッツが、ナマ演奏から遠ざかっていて復帰したときの「ヒストリック・リターン」ライブ。 これは、バッハ、シューマン、スクリャービン、ショパン、モシュコフスキ、ドビュッシーが履いてます。 そして、 生演奏から遠ざかっていた頃のステレオのスタジオ録音で、ショパン、ラフマニノフ、リスト、 その次が、ボックスの中では最も古い(戦前のは無いから)「展覧会の絵」これは大分、ホロヴィッツが楽譜に手を入れてるのがわかります。 で、プロコフエフとカバレフスキー(!) こうして聴くと、 もちろん、若い頃の彼は、バリバリ!!度が全開で、 後年になると(以前聴いたソヴィエトライブなど)、響きを重視するほうになっていったんやな、、、とわかります。 といっても、響きそのものは、ずっと、彼の「名刺」のように特徴的ですが。。。。 響きが美しい、、、そして、録音といえども、おそらくはピアニッシモの完璧なバランス、、、などは、内田光子にも、言葉で言えば共通していますが、 (リズムの崩れなどテクニック面で、現代の内田光子がはるかに上であることは言ってもしかたない当然のこととして、) しかし、この二人ほど、究極の対極にある人はいないようにも思いました。 ホロヴィッツは、(まだこんだけ聴いただけの印象なので、今後変わる可能性はありますが、今の印象、、、として) 「響き」と「快速な"指"」を快楽・欲望の対象として、それを、聴衆の欲望に捧げている、、、というような気がしました。低俗という意味ではありません。(←そう言ってもいいかもしれませんが) 彼が、長いこと、ナマ演奏を避けていた時期がある、、、というのは、 スタジオ録音が活発だったことからすれば、まあ、グールドと似た状況だったのかもしれませんが(どちらも超絶技巧が売り、、という面もあったし)、 常に、「客の反応」を意識していたため、それに疲れた、、、のかな、、、と思わせるほど、 「リスナー」が悦ぶように、印象に残るように、、、 手練手管を使っているようにも思えます。 といって、もちろん、フレーズをまとめ弾きするような昔風なところはあるとはいえ、 特別に、恣意的なルバートが目立つわけではなく、 ある意味「端正」といってもいいかもしれません。 が、しかし、古いモノラル録音からですら、 聴く者は、響きに欲情してしまう、、響きに淫して溺れてしまう、、、 "指"の速さに押し倒されてしまう、、、 また、そうしたくなる、、、 そんな演奏でした。 こう書くと、やたら、退廃的な感じになってしまうのですが、それがまたある意味「健康的」このうえないほど「陽性」でもある、、、のが彼の魅力かもしれません。 淫して溺れて欲情しても、でも、後ろめたさ、、、は無い、、、 客を喜ばす、、、ということの根っこに、自分自身が、大好きで、音楽に身を浸して生み出すことがうれしくてたのしくて気持ちよくてたまらない!!! というところがあって、客に「合わせてる」というのではないように思います。 ありあまるテクニックがあって、彼の好み・欲情があって(音楽的な)、それが時代や大衆の好みや欲情にもぴったり合った、、ということなのかもしれません。 ちょうど、響きに執着したにもかかわらず、対照的な音楽家としては、カラヤンとチェリビダッケがいますが、指揮者の場合、「オケ」を得るか否か、、、という社会的背景が影響もするので、ホロヴィッツと内田光子の関係に直接はくらべられないかもしれません。 とはいえ、 快速にして、響きを重視、、というのは、カラヤンの壮年期までの志向には類似しているような気はしますが、、、 また、唐突なのですが、 響きをつきつめ、ドラマ性を求め、 「客の悦び」を常に得ないと不安で仕方ない、、、という志向性と集中は、 桂枝雀の落語を思い出させます。 正直、演出過剰かと思わせるほど、これでもか、、と客の反応を引き出し でも、いくら反応を引き出しても、そこに安住せず、 また、「次」への不安をずっと無限に抱き、 また、そのための訓練を日常、片時もおこたらず、 自分をすり減らして、舞台に立てなくなり、、、、 という枝雀も、 「芸」と「板」に全てを捧げた人生を突っ走った人生だったように思います。 最後は、悲劇的な死を遂げられましたが、、、 ホロヴィッツも、単なる美音ではなく、 ドラマを、世界をつくりあげるための響きを駆使する、、、 (とくに"指"の速さでは、「押し倒せなく」なってからは、一層、「響き」で勝負したみたいですし) ただし、そのドラマや世界は「美しいもの」であり、「豊かなもの」である、、、 そういった、 ある種の「楽天性」を感じさせます。 本人が、痛々しいまでに繊細で、努力家で、もしかしたら、ペシミスティックな人だったとしても、、、 そういう、表現や客との関係性での志向と、本人の内面(←あくまでも想像ですが)との関係もまた、ホロヴィッツと枝雀にはなにか、通じるものを感じます。
社会人になって初めて!といって良いと思いますが、休暇をもらって、 内田光子のリサイタルを聴きに福岡までやって来ています。さすがにこの時期に休むために、3時間睡眠になってしまいましたが… 福岡のアクロスホールは、当然、初めてですが、堂々たるシューボックス型で両サイドのバルコニー席の雑音は干渉しない、聴きやすいホールです(「兵庫県立」と異なり…)。 ピアノソロにはやや広すぎるかな…と最初のモーツァルトのイ短調ソナタでは思いましたが(内田光子には珍しくややバタついた気がしました)、すぐさまホールの響きを身につけて、クルターク、バッハ、モーツァルトを続けて、演奏し、まるで、現代音楽の作曲家が新古典派的のモチーフをコラージュに用いながら作った一つの連作のようにも聞こえます。 バッハの構造の普遍性とも言えますが、やはり「響き」を完璧にコントロールする内田光子だからこそ浮き彫りにできた「響きの普遍性」による「構造主義」的な光の当てかた、といえるかもしれません。 後半のシューマンの幻想曲もさらにホールの響きを自家薬籠中のものとし、ffからppppまでを精妙な響きで多彩かつ余裕で描ききります。 またルツェルンでのコジェナーとのリサイタルでも感心したのですが、シューマンの厚い和音が朗々と鳴り響いて行く中で、進行する全て和音がバランスを保って鳴り響くのはもちろんの事、 その響きの中で「浮き」はしないまま、旋律ないし、進行上主たる音のラインがくっきり聞こえます。 ピアノという楽器そのものの可能性と素晴らしさをも実感させてくれる、なにより、音楽の素晴らしさを実感させてくれる、コンサートでした!
もうひとつ、強く印象に残ったのは、彼の「舞台人」としての本性、、、です。 無条件で、とにかく、「お客」を満足させる、、、喜ばせる、、、、 そのことが、「あたりまえ」であり、 そのために、できることを全てやる、、、のが、自分の使命であり、存在意義そのものである。 そして、お客がどうしたら喜ぶのか、、、 自分の何を見に来るのか、聴きにくるのか、、、それも、十分に判っており、感じている。 そんな「舞台人」のようです。 むろん、お客が見に来るもの、、、は、 過去のマイケルの全ての時期の彼のベストの状態を「最低限」として、 かつ、それにsomethingが魔法のようにプラスアルファされたもの。。。。 と、痛いほど理解しているがゆえに、 おそらくは、この映画で豊富に使われている、 今の「全力以上」を出し切ったかのような、過酷なダンスに歌唱であったのかもしれません。 自らの完成型のイメージの完全な「像」に忠実であったばかりでなく、 お客が求める「像」にも、100%忠実であらねばならない、、、という残酷さ、、、 まさに、ネバーランドの住人、ピーターパンのように、 老いること、、歳を重ねること、、、が許されない、、、 また、自分で許さない、、、 彼が、舞台になかなか立たなくなり、また、今回が最後、、、と言ったのも、 このリハでの一見、「若い頃のようなキレ」のある演技・歌唱からすれば、 もったいない、、、とも思えるかもしれませんが、 逆に、それほどのムリをして、ようやく、「最後のカーテンコール」の舞台を、 マイケル・ジャクソンとして、行おう、、という決心をしたようです。 演出や振付、キューのタイミングなど、 自分の中の像は、また、お客の喜ぶツボであり、 それを、はずすことなどありえない、、、、という信念と指導のもとに、 舞台が徐々に、まとまり形をなしていきます。 実際には、主に、2~3回の総練習(ゲネラル・プローベ)の映像を主に用いて、あと、オフステージの映像をとりまぜて、構成しているようです。 ちなみに、当然のことながら、マイケル無しのリハが相当に重ねられた後、マイケルが登場したようです。(このあたりは、アマチュアオケや合同演奏会などの客演指揮とかでも同じです、、よね。) その「原型」にどこまでマイケルが関与したか、は定かではないですが、もしかしたら、もう何年も前から、そうした「構成」などは、考えていたのかもしれません。。。資金集めやプロモーター手配なども、思い立ってスグできる規模のものではないでしょうから。。。 マイケル自身が実際に、どの段階で、どの程度、疲弊していたのか、、はわかりませんが、 時系列としてはおそらく相当にランダムに構成された映像ではあるものの、 映画としては後半あたりに、 イヤフォンによる音声モニターを通じて自分の歌声を聴くことが困難である、、と訴えたり、 リハではフルヴォイスで初めから歌わず温存しときたい、、、と訴えながらもスタッフや若手アーティストの希望に応じて全力で歌ったり、 踊りがしっかりと決まらずに焦りやいら立ちをおそらくは持ちながらも、そのたびに、「God breath you」を相手に繰り返したり、、、、 決して全盛期ではない自分、、、をおそらくは誰よりも思い知っているであろうことを想像しながら見ると、胸が痛くもなります。 もしかしたら、実際、疲労困憊で、ミスが出てきたのかもしれないし、 逆に、全然そうは見えなかったのかもしれないし、、、それはわかりません。 ただ、本人が、マイベスト!!とは到底思えるはずがないことは、想像に難くありません。 目指すリファレンスが、老練で熟練した、ナイス・ミドル路線、、ではなく、全ての世代を冷凍保存したかのような「ベスト」なのですから、、、 そうした、人間としての痛み、、、焦り、、、そして、それをオモテに出さないように、、、 また、 客の満足のみならず、 全てのスタッフやクルーやメンバーもまた、彼にとっては、「喜ばせるべき相手」 であったようです。 機嫌をとる、、、という意味ではなく、彼の芸によって、感動させ、圧倒し、喜ばせるべき相手、、、 マイケルの身体は、すでに、このとき、マイケル自身のものではなくなっていたのかもしれません。 こうした本能的な「舞台人」としてのマイケルの姿をみて、 これまた、思い浮かべたのが、あのモーツァルトでした。 モーツァルトも、幼少の頃より、音楽「芸」をひっさげて、ヨーロッパ各地を周り、 行く先々で、ヨーロッパ中の「お客さん」を、演奏や自作の曲で、 驚かせ、喜ばせ、、、 何が人を喜ばせ、関心を持たせ、驚かせるのか、、、を 肌身で感じ、骨の髄まで、幼少期から、幾重にも刷り込んだ人なのでした。 そして、 やがては、片田舎ローカル出身ながら、ヨーロッパ各地の文化セクションに触れることで、 「ヨーロッパ」文化を自らのうちに統合していくほどの吸収を重ね、それが、それまで存在しなかった、「ヨーロッパ音楽」の初めての作曲家への成長の基礎としていった人なのでした。 こうした「幼少期からの舞台人」としての刷り込み、、、は、 二人の天才に、似た影響を与えたように思いますし、 彼らの音楽や芸(オペラもダンスも)が、 先端を行きながらも、同時に、非常な人気を獲得したことも、 そうした舞台人としての本能が人生の全てに作用していたから、、、 ということも大きいように思います。 すなわち、もともと持っている大きな才能の全てに対して、 舞台人としてのセンスが働くように、デフォルトで設定されていた、 といえるかもしれません。 ちなみに、 そうした本質的な面とは別に、 おそらく結果論、、ではあるのでしょうが、 経歴としても相似したところが見られるように思いました。 モーツァルトは、 そうした「ヨーロッパ音楽の天才作曲家」になるに至る前には、 まず、「天才子役!!」から、「単なる、大きくなった子供」扱いによる人気・関心の消失、、、就職難、、、という苦渋と失望と落胆に満ちた日々を送らざるをえず、。 その後、ウィーンという当時の「文化首都」で活動の場を得て、 ダ・ポンテの台本と出会い、、、オペラ作曲家として存分な作品を生み出し、 当時のウィーンに集まる各名奏者・名歌手と交流し、 彼らの求めに応じて、または宮廷の求めに応じて曲をつくり、 当時としては、非常な高額の収入も得るまでに至ったという人です。 一方、いうまでもなく、 マイケルはジャクソン・ファミリーの大人気の天才末っ子で、 その後、大人になるにつれ、人気は一旦、凋落しかけたところへ、 クインシー・ジョーンズとのコラボレーションにより、 マイケル・ジャクソンは「再創造」されたといってよいわけで、 (・・・といってよいですよね?) 世界的なベストセラー・ミリオンセラーを連発し、 やがて、キング・オブ・ポップとまで言われ、 巨万の富を手にいれながら、 借金だの事業の失敗だの、またありとあらゆるゴシップの対象にされ、 晩年の10年はほぼ「変質者扱い」(←もしかして日本だけ?) だった、、、、といえるでしょう。 ちなみに、ご承知のとおり、モーツァルトも、 高額な収入を得ながら、晩年には、人気の凋落(戦争のための不景気のせいともいわれてますが)に苦しみつつ、ありえないほど多額の借金をして、生活苦の中で(というか借金しまくって)晩年を迎えています。 まあ、最後のところはあまり関係ないですが、 この映画、そうした「天才」の面と、 一方で、 僕らの普段の仕事にもつうじる、「イメージ・目的・目標」を「人間」が作り出し、 それを、具体的に提示し、交換し、相互に影響させあい、 「実」にしていく、、、 という営み、、、 「諦めないこと」による仕事の研鑽、、、 そうした、まさに、毎日の僕らの生き方そのものに「等身大」で感じられること、、、 その両面がみられた映画のようにも思いました。 (その両面の狭間にみられた、天才の人間としての苦悩・不安・焦りなどの弱さも、、、) │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||