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にほんブログ村 にほんブログ村 壮大な計画だが、いつか「記憶言語学」という講座を持って教えてみたいと思う。大学になるのか、また別の機関になるのか全く見当もつかないし、第一実現の可能性自体もかなり低いのだが、これを目標に講義計画を練る目的でブログに投稿してみようと思う。 最終的には言語学の域を超えて「記憶科学」や「個体性理論」という形で、他の科学の分野を巻き込んで行く事が理想だが、まず少なくとも言語学の分野で1人でも多くの賛同者を得られたらと思う。 CLG2009 の日記 [全232件]
五月は、色々な行事が重なり、とても忙しい月になり、ブログの更新もままならないほどでした。 6月も忙しくなりそうですが(日本に一時帰国する予定もあり)またブログを再開しようと思います。 今頭の中で渦巻いているのは、どうして個体が知覚という認識を得るに至ったかです。これが解ければ「意識」が何であるかの糸口がつかめると思います。一番大切なのはまず「疑問」を持つ事で、これから答えに一歩一歩近づいて行きます。
(河村知久さんからの以下のコメントに対する回答です。) 現代科学では、「意識」を扱う「心理学」と言う学問は、自然科学から締め出されています。それが証拠に、どの大学でも心理学課は、文学部に設置されています。つまり、「心」の様な曖昧なモノは、数値化出来ないがゆえに、科学ではないと、考えられているのだと思います。 しかし、2009さんの様に、意識つまり心を、「記憶」と考えれば、数値化が可能になります。つまり、人間の大脳を、コンピューターの様なものだと考えれば、よい訳です。コンピューターの記憶は、電気反応です。大脳の記憶は、化学反応です。ただそれだけの違いです。 「心理学」が自然科学から締め出されているというのは、確かに正しいですが、「認知科学 cognitive sciences 」という形で、健在です。といっても私は認知科学をあまり評価していません。なぜなら、認知科学では「心を数値化」しようしているが、結局は心理学の枠を抜け出せないからです。 認知科学では、実験対象に刺激を与え、これに対する反応を見る形で数値化が行われます。何を数値化するのかは、どのような実験を行うかにかかってきます。赤ん坊の、音素に対する反応を見る為に赤ん坊がくわえる「おしゃぶり」への圧力を測ったりするのは、その一つの例です。しかし、この場合でも、赤ん坊がどのようにして音素を認識しているかどうかは問題ではありません。全ての認知科学の実験を検証した訳ではありませんが、これに気がついた時から、認知科学は心理学の延長に過ぎないのだと確信しました。そして、結局、心をブラックボックス視している心理学では言語の本質は語れないのだと悟った訳です。 実は、私が「記憶」という概念に注目するのも「心の数値化」ということがやはりあります。私が哲学に興味を持たないのも、数値化しない所で成立している学問だからです。言語の本質を理解していないのに、言語を使って世界をとらえようとする。これは無理な話です。 そして私は、どう数値化するのかを探るよりも、数値化自体がどのようにして可能になるのかということに関心があります。コンピュータは確かに、0と1という信号で全てが成立しています。しかし私は人間の脳はコンピュータの様なものだとは考えません。確かに化学反応や電気信号で動作しているのですが、その成立のプロセスにもっと考察が必要だと考えます。そして数値化を裏付けるのが「離散化力の二極化構造」なのです。(つづく)
前回の投稿に対して非常に的確な指摘をいただいたので、それについてちょっと掘り下げてみようと思う。 意識という対象をどうとらえるかという大問題だが。私のアプローチが「汎心論」なのか「唯物論」なのかという問いである。私はどちらでもないと思う。といっても全く違う訳ではない。その理由を説明してみたいと思う。 「汎心論」に関しては、コメントの答えと次の様に書いた。 「全てのものが「意識」を持っていると考えるのは、一種の擬人化です。人間の意識や心がわかっていないのに、物の意識や心を、人間の目を通して理解しようとしても無理でしょう。そこで私は「記憶」という概念に注目しています。」 さて「唯物論」であるが、「物」が存在すると言うことに異議を唱える形で、私は「個体性理論」を展開している。物という存在単位ではなく、離散性という概念を使って、いかなる存在も「座標」であると考える。なんの座標であるかというと、今の段階では「記憶」であるとしている。 この「記憶」という用語の正当性であるが、実は今の所、あまり自信がない。記憶という概念は、あまりに身近すぎて、その先の私の考える「記憶」の概念が見えてこない可能性があるからである。最終的に「汎記憶論」という枠組みが成立するかもしれないが、これはまだまだ先の事であろう。 「座標」「記憶」「離散性」「個体」「進化」、今はこれらを一つの理論としてまとめる事が重要なのだが、これが中々難しい。
意識に関する考察は、どこでも花盛りのようだ。ユーチューブで探すと結構ヒットする。「クオリア」という訳のわからない概念を使って説明するのが最近の流行らしい。 私が考えるに「意識」は、個体性理論の「個体」同士の認識がベースにある。始めは、原子・分子同士の物理的認識、ある意味その場限りの認識である。つまり相互反応自体が認識になる訳で、化学反応自体は何らかの形で個体内に記憶されるだろうが、その記憶を個体が利用する事はない。お互いを認識することは、外界の情報を内在かするという事である。そしてリアルタイムで入って来る外界の情報を、判別する事によって外界を知る事になる。 生命体には「知覚器官」が備わっている。これを使って外界の情報をキャッチして認識するのであるが、今私の考えているのは、どうしてこの知覚メカニズムが、個体の進化の過程で生まれたのかという事。もともと物質を支えている力を私は「離散化力」と呼んでいるが、この力の特質が、そのよりどころとなっているはずである。 今、重要なのは意識の起源に関する疑問が生まれた事。いつも、素朴な疑問から、複雑な疑問に発展するからだ。まだこれから、どのくらいの時間がかかるかわからないが、最初の質問は投げかけられた。後は、もがいてもがいて答えと次の疑問を探すだけだ。
前にも紹介したと思うが、フランスには様々な「科学雑誌」がある。大衆向けのものもあれば、専門的なものもある。それに「ムー」的な雑誌も幾つかキヨスク(雑誌専門販売所)等で売られている。 その中の一つに、人間の知性(インテリジェンス)の進化が限界を迎えているのではという記事があった。IQテストの結果が頭打ちになっていることから来る考察で、インテリジェンスの「進化」が止まるという事は、種としての人間の進化も止まるのではないかという論理らしい。その雑誌を買って読んだ訳ではないので、あまり迂闊な事は言えないが、ここにも「知性神話」が影を落としているようである。 私が「知性神話」と呼ぶのは、人間の知性が高度に発達したから言語を使える様になったという論理のことである。人間が類人猿から進化したのは、単細胞生物から多細胞生物に、えら呼吸から肺呼吸へ、無脊椎動物から脊椎動物へ、といった形態・機能上の進化と同様に、知性も進化すると単純に見なしているのだ。生命が地球上に生まれた段階から、現在に至るまでの生命の形質の変化を我々は「進化」と呼んでいる。この「進化」自体に異議を唱える人は少ないだろう(が、ダーウィンを目の敵にしている人たちは世界中に結構いる)。この「進化」を寄与のものであるとすれば、進化の産物であるはずの人間も、引き続き進化を続けるはずであるという論理である。 しかしここで大きな問題がある。進化がどうして起きるのかが、きちんと定義されていないのである。自然淘汰という説明があるが、遺伝子がどうして一つの方向に向かって組織化を続けるのかに関してはほとんど説明がない。それに遺伝子自体がなんであるかの説明も無い。進化が起きた事を容認することで、進化に対する説明をしなくてはならなくなる。進化が無かったと否定はしないのだから、それらしい説明をすることでお茶を濁す訳だ。 この知性神話の根本にある見方は、もう1つの「脳神話」を生み出す。人間(高等生物)の活動は、様々な体の器官(organe)によって保障されているが、脳もその器官の一つであると言う考え方である。そして意識を支えているものは脳の働き、つまり脳細胞の働きによって意識が生まれていると見なしている。 私はこの見方をとる限り、その先は見えてこないと思う。ガリレオが地動説を唱えたとき、ローマ教会から異端視された。しかし人類はこれをのりこえて地動説を受け入れた(今でも一部、天動説を信じている人たちはいるが)。今の科学が居心地がいいといって、それが正しいのではないのである。
手話(フランス手話)を習い始めたのはフランスに来た翌年の1996年から、それから何年か続けて週二時間の授業をとった。今の手話の知識は実際に「聾者」の先生から手話を教えてもらった事がやはり大きい。(フランスでは、日本で「ナチュラルアプローチ」と呼ばれる、音声を全く使わない、聾の先生による手話の学習方法が普通。) 最近は、大学の手話関連の授業とも離れ、手話を使う友達と会う事もあまりなくなったので、手話の会話力は落ちる一方である。もともと週一の授業では限界があるのを感じていたし、聾者のコミュニティーとの日常的な関わりもあまりない状況だったので、始めから厳しい状況にはあったのだが、その傾向がまた強くなっている。 ただ、手話の能力を上がらないことが実は私の手話の研究に結構重要である部分もある。というのは、手話が全くわからない状態から始めて、手話が理解出来る様になるプロセスを何回も繰り返す事で、視覚を使った言語情報の認知のメカニズムを自分をモルモットにして解析する事が出来るからである。 言語情報の聴覚認識と視覚認識の大きな違いであるが、どちらも「意味(シニフィエ)」が認識に不可欠であるのは同じだが、視覚認識の方が意味の果たす役割がより大きいという事である。音声言語の場合、全く意味のない音素の連続でも(きちんと分節されれば)聞き手に認識される。それに、発音は同じで意味の違う単語も多く存在する。これがどの意味に対応するかを判断するのは聞き手である。 これに対し手話言語の場合、サインをする人が「同じ体」を使って表現すると言う点では、ある意味「同音異義語」の様に振る舞うが、その「形」は音声言語の「一定数の音素」のように「確固たる座標」があるわけではない。腕の微妙な角度、視線、あごの上げ具合、指のしなり度等、その座標は無限に存在するからである。手話を使う人たち、つまり体の形を認識することを日常にしている人たちにとっては、サインをする人の体の位置の情報を一瞬にして確認して「再現」することは、音声言語しか知らない人たちに比べて遥かに容易であるが、この「形」は音素の連続によって記述できるもの程の「正確さ」を伴わない。写真やビデオにとって残す事は可能だが、音素のような正確な座標はない。 しかし、この「同じ体」による表現は、大きな利点がある。というのも、全ての人間が同じ体の構造を共有することで、サイナーの行う動作が、そのまま日常の動作と一致する時、ダイレクトに意味を伝える事が出来るからである。手を口に持っていく事で食べる事を表現できる。容器に入った液体を傾ける事をマイムすることで飲む事を表現できる。音声言語の場合、音素は意味を持たない単位として一般的に認識されているが、手話言語の音素に対応する体の構造が、意味をダイレクトに伝える媒体になるのである。 始めに書こうと書こうとしたことから大分離れてしまったが、これも前々から書こうとしていた事なので、今日はここでやめる。
私の父は、何年か前にくも膜下出血の再発で、聞いて理解する事が難しくなった。自ら話をする方は大分回復したが、まだ会話は難しい。しかし帰国して会うといつもとあまり変わらなく生活しているのに驚く。というのも「聞いて理解する事が難しい」と言っても、紙に書いている事を読んで情報を得る事は可能なのだ。今でも、昔の様に新聞や雑誌に目を通す。 聴覚を使って切り取られた認知単位(記憶単位)に、二極化構造が生まれる事によって、シニフィアンとシニフィエへの分化し「価値の二重システム」が成立し「シーニュ(記号)」が生まれる。私の憶測に過ぎないが、父の場合、音声言語を聞いて理解するメカニズムに問題が起きているように思われる。 この「認知単位の二極化構造」であるが、聴覚情報と視覚情報で時間上の処理の仕方に大きな違いがある。視覚情報は継続的な物理的サポートがある事によって、リアルタイムに処理する必要がない。特に書かれたものを読む場合、平面上に展開された文字は、意味を理解するまでずっと変わらずにそこにある。 手話の場合は、少し微妙である。手話は視覚言語であるといっても、文字表記の様に時間軸上に連続して「全ての視覚情報」がとどまるのでは無いからである。例えば腕の動きは連続写真を重ねる様に空間にはとどまらない。指で「空文字」を空間に書く場合も、その軌跡は記憶な中に刻まれるが、空間にはそれをサポートする媒体が存在しない。 これも憶測に過ぎないが、私の父が聾者で手話を使うことを日常にしていた場合、多分「サイン」を単独で理解する事は容易でも、連続している一連のサインから意味を読み取って理解するのは難しいだろう。人間の体という関節と筋肉で動く構造物という物理的サポートがあるため、始めと終わりを体の運動の空間上の軌跡で切り取る事の方が、音声言語のように「認知単位の二極化構造」によってでしか「1システムとしての音素の集合」を認識すること出来ないのに比べて、遥かにシニフィアンの認識オペレーションの負担が軽いと考えるからええある。 帰国すると父はフランスに関する記事や言語学の本の紹介の切り抜きを渡してくれる。突っ込んだ話は出来ないが、或る程度のコミュニケーションはとれる。もともと無口な人だったので、ちょっと見ただけでは何の問題も無い様に見える。 人間は記憶の蓄積でアイデンティティーを作り生きている。これが破壊される事で認知症になる。医者達はこれを食い止めるのに大きな努力をはらっているが、記憶をどのように(意識的と無意識的)操作して言語が生まれるのか、つまり言語のメカニズムが一般的に理解される様になれば、この点に注目することで脳科学者達が失語症のもっと突っ込んだ治療方法を見つけてくれる様になるかもしれない。 父の為にも私はそう信じている。 |一覧|Recommend Item
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