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カテゴリ:その他
今日横浜から帰ってきました。 自分の記録のために書くブログなので、暗い話になります。 どうぞ、今日のは、飛ばしてください。 母が亡くなりました。文字どおりの急逝でした。 もとより、大動脈瘤の持病があり、 破裂したら病院までもたないと言われていました。 でも、何年ももつうちに、そんなことは失念していました。 詳しく分からない電話に、一縷の望みを掛けていましたが、 横浜の義兄から電話が入り、「○○病院で、亡くなったから・・・」 もう、信じる外ありません。 何がなんだが分からないし、実感がわかないまま新幹線に乗り、 新横浜に着きました。父と姪が待っていました。 仕事の関係で、やっと、連絡がついたという姉を待ち、近くの葬祭場へ。 遺体安置所で、冷たくなった母に会いました。 眠ったような安らかな顔なのに、ほおを触ると冷たくて、 信じざるを得ませんでした。 悲しめたのはそこまでで、そこからは、打ち合せのために、数時間。 更に、姉の家で手順と確認。ホテルに戻っても、寝るのが精一杯。 長い一日でした。 派手好みだった母に白い着物は似合わないと、 手を通しても無かった明るめの着物を着せてもらいました。 上から布団を掛けるので、ほとんど見えないのですが、 納棺のとき、若い頃、着物をよく着ていた母を思い出し、 これでよかったと思いました。 姉の強い希望で、花の祭壇にもなりました。 予定より大きい部屋だったのは失敗でしたが、花も多く頂き、 花に囲まれて通夜も葬儀もできました。 母は、気分が悪いと、水を飲みに行こうとして、よろけたので、 父が支えたら、ああっと、言って崩れ落ち、 もう呼び掛けても意識はなかったようです。 死ぬ瞬間まで、死を意識せず、 父の腕の中で実質的な死を迎えられたのは、 幸せだったのではないかと思います。 山あり谷ありの83年間の生涯でしたが、 母は、満足していることと思っています。 時々祭壇の前に座って、ぼーっとしていました。 母に何か話し掛けるわけでもなく・・・。 私は、予想以上に冷静に過ごしています。 父のこれからの一人暮らしが心配ですが、 父も何とかやっていけるように思います。 父に携帯の使い方を教えました。 今までより、覚えようとする気があり、 一人暮らしを受け入れようとしているのが、 安心なような哀れなような、複雑な気持ちです。 その後は、ただただ、あわただしく過ぎていきました。 様々な届けを、木・金に、遺品の整理を土日にと、 忙しく動いていきました。 帽子とスカーフとベストの好きな母でした。 一つ帽子を持って帰りました。 母が好んで使っていたバッグも当分使うことにしました。 10日の夕方名古屋駅に着くと、車でりょうパパに連れてきてもらって りょうがついてきていました。 今は、いつのものように、私たちの寝室で寝ています。 昨日まで、1階の両親の部屋で寝ていたようです。 とんでもないいたずらもしたようです。 りょうも、やっと元の生活に戻ったのかも知れません。 十分とは言えませんが、やるだけのことをしてきたので、 明日から、元の生活に戻れそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月11日 01時11分45秒
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