カテゴリ:宗教的雑感
●カトリックの女子パウロ会のホームページの間違いだらけ!●
カトリックの女子パウロ会のホームページに“Laudate(ラウダーテ)”というタイトルのサイトがある。ここに、「キリスト教マメ知識」というのがあるが、その間違いの多いこと、多いこと。ひどいものだ。あげたらきりがないが、ひとつだけ。 たとえば、こうだ。 ◆「トーラー」の説明◆ ◎トーラー(律法) モーゼ五書=創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 「トーラー」は、文章の最初の2つの言葉を意味します。ユダヤでは、聖書をよく最初の2つの言葉で呼んでいました。 これがでたらめ。ヘブライ語の「トーラー(Torah)」はどこまでいっても「トーラー」で、本来の意味は「教え」とか「指図」というもの。日本では「律法書」という意味に訳されることが多い。どこに、「最初の2つの言葉を意味」するというのだろうか? 実は、この女子パウロ会の無知をさらけ出しただけ。 こういうことなのだ。 以下に、新教出版社の『聖書辞典』や、岩波書店の『旧約聖書』シリーズの第2巻、『出エジプト記、レビ記』の解説に書かれていることなどをもとにして、概略を粗述してみよう。 たとえば日本語で『出エジプト記』と言われているものは、この「トーラー」が指している、「モーセ五書」、つまり『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』のうちの一書を言うものだが、この本来のヘブライ語のタイトルが、彼女らが宣うところの、「文章の最初の2つの言葉」によるものなのである。 『出エジプト記』というタイトルは、これはギリシア語タイトル“Exodos(エクソドス)”から日本語にするときに、ギリシア語の“exodos”の意味「出ること、出口」を参考にして、新たにつけたものなのだ。ギリシア語の“Exodos”は英語にすれば“Exodus(エクサダス)”。これもやはり日本語タイトルの『出エジプト記』のことだ。 もともとのヘブライ語からギリシア語に翻訳したとき(七十人訳聖書)、その内容にあわせて新たにつけられたタイトルで、もともとのヘブライ語タイトルこそが、この『出エジプト記』の冒頭の文の最初二語によっていたのである。 ヘブライ語の冒頭の一文の最初の二語は、日本語では「そしてこれらが名である」という意味になるという。つまり、この二語が本来の『出エジプト記』のタイトル。 あるいは、『レビ記』では、冒頭の最初の文の一語「そして彼は呼んだ」が本来のヘブライ語のタイトルだという。こちらは二語ではなく一語。一語だけで呼ぶ場合もあるのだという。これもまた、ギリシア語に訳されるとき、その内容に従って「レウィティコン(Leuitikon)」というタイトルがつけられたという。内容は「レビ人」の役割を述べているものと解釈されたからである。そのギリシア語解釈に則って、日本語でも『レビ記』と名づけられたもの。 これが女子パウロ会のシスターたちの宣うところのものだったのだ。 これを指摘しても、「ごめんなさい」、あるいは「ありがとう」の一言もない。指摘してから十日たっても、何も言ってこないので、ここに掲載することにした。 ◆日本語をよく知らないらしい◆ 次は日本語の意味がわかっていないらしいこと。 今日、7月31日はイエズス会創立者の一人、イグナチオ・ロヨラの記念日(命日)なので、彼女らのサイトに、イグナチオ・ロヨラについての案内がある。ここの間違いから。 新しい国王の即位にちなんで、スペインで起こった内乱は、ナバラの独立運動とフランスの侵入政策のきっかけとなりました。 この戦いで、イグナチオは戦死を覚悟でキリスト教として死の準備をしました。自分の犯した罪を告白し、神の赦しを祈り求めたのです。 「新しい国王の即位にちなんで」とは、こんなところで使っていい言葉だろうか? 女子パウロ会のシスターたちは、「ちなむ」という言葉の意味を知らない、ということをもさらけだしている。「ちなむ」は「あることの縁によってあることを行う」あるいは「あることをきっかけにして親しく交わる」という意味なのだ(『新潮国語辞典』による)。普通は「内乱」が起こるときには使う言葉ではない。 もう一つあげておこうか。教会カレンダーの8月6日の主日解説である。 8月6日 主の変容/第18主日 今日の福音を理解するには、ペトロの信仰告白、イエスの死と復活の予告、私についてくる者は、などのエピソードの後に今日の福音の箇所が出てくるということです。 「今日の福音を理解するには」に対応する文節がない。 女子パウロ会のシスターたちたちは、日本語の文章もろくに書けないらしい。このようなものを、「文節対応のねじれ」と呼ぶが、彼女らの書いた文章にはこのような「ねじれ」が非常に多い。主語に対する述語がどこかに消えて、「おい、おい、何が言いたいんだ」というものも少なくない。これは中学校で扱う単元の中にある。 つまり、中学生のレベルにも達していないのだ。 もちろんぼくも、「あなたがたの国語力は中学生にも劣る」と言わなかったけれども、ひどいものである。指摘されただけで、もうむくれているらしい。間違いを指摘されたキリスト教徒なら、「ありがとうございました」でなければならないのに、無視を決め込み始めたのである。 いかに、カトリックのシスターたちが、甘やかされ、ちやほやされているかの証左と見ていいだろう。自分たちは、神様に奉仕しているのだから、尊敬されるべきである。間違いがあっても指摘するべきでない、そう考えているというほかない。愚かな! 今後は、彼女らの間違いを、彼女らには告げずに、ほかの場所で追及することにしたい。 とは言ってもあまりにくだらないので、気がついたときに、どかんどかんと、公表することにしたい。 カトリックでは、こうしたシスターたちの存在が頭痛の種なのだ。何せ、この地球上に女子修道会がいくつあるのか、神様もご存じないというのだから、どうにもならない。それに、おもしろいことに、女子修道会の経営するミッションスクールを卒業した女子の多くが、カトリックを嫌いになると言う。試しに統計を取ってみると、きっとかなり驚くべきデータが現れるのだろう。 いかにシスターがキリスト教布教の妨げになっているか。 女子パウロ会もその一つだったらしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 31, 2006 09:59:20 PM
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