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フランシスコのたわごと

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November 25, 2006
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カテゴリ:雑感:世俗の中に
●都民は石原親父の「親ばか」ちゃんりんを押しつけられたんだね●

 石原慎太郎都知事の四男であらせられる石原延啓の東京都公費出張が問題になっている。
 当然だろう。ほかにいくらでも力のある見所のある若手がいるのに、わざわざ自分の息子をアドバイザーにした上、丸抱えでヨーロッパに出張させてやっているのだから。
 でも、このようなものをけっして「私物化」とは言わないのだ。北朝鮮のように、国家権力を世襲して引き継ぐというわけではないし、だいたいが「父親の欲目」でものごとを判断しているのだから。こう言うのを世間では「親ばか」というのである。若いころは優秀だった太閤秀吉も晩年は自分の息子のことにかかりきりのただの「親ばか」だった。
 力量のない息子秀頼の将来が心配で心配で、居並ぶ強者たちにごり押ししたものだ。

 それから比べれば小さい、小さい。ごくごく小物の「親ばか」というところだろう。自分ではこれっぽちも「私物化」していると思っていない「親ばか親父」には、何を言ってもむだというもの。

 それにしても、東京都民もマスコミも、まあなめられたものだ。
 「親ばか」を押しつけられて、「親ばか」が「バカ息子」に税金を使って、それで「どこが私物化だ」と押し切られてしまうのだから。

 為政者というもの、身内に対して税金から支出するときや、縁者に権力を付与するときには、常よりも厳格な評価によって査定しても、なおなお避けようとするのが政治家の常道であろう。
 それとも都民はだれも、「親ばか」許せとばかりに石原慎太郎親父に、暗黙のうちに頼み込まれてしまったというのであろうか。政治の場に「親ばか」がまかり通る、というわけだ。みっともないことはなはだしい、とはだれも思わないのだろうか?

 それとも、東京にオリンピックを招致することになったので、もう一期、都知事がやれるとでも思いこんでいるのかも知れないね。こんなのをまた都知事にするとしたら、東京都民は首都の有権者として恥ずかしいね。


●力のない画家でも親父が権力者だと楽だね●

 以下に「敷島画廊」のウエブサイトに載っている、石原慎太郎四男、石原延啓画伯の履歴を抜粋してみた。

1989年 3月  慶応義塾大学経済学部卒業
1991年 5月  スクール・オブ・ビジュアル・アーツ(ニューヨーク)卒業(B.F.A修得)
1994年 1月  東京工学院 壁画展示
1994年11月  個展「イコン」(東京、ギャラリーサカ)
1994年12月  関西新国際空港 壁画展示
1995年 2月  個展「レスポワール展」(東京、スルガ台画廊)
1995年 4月  グループ展「澁澤龍彦画廊」(東京、日動画廊)
1998年 6月  個展「Creature'98」(東京、スルガ台画廊)
1999年10月  個展「石原延啓展」(福島、森美術館)
2001年 7月~ 9月 個展「Keep moving-止まらないために」(福島、いわき市立美術館)
2002年    個展「いのちの肖像を描く」(宮城、藤崎美術工芸サロン)
2002年    個展「ヒラサカ」(東京、ナガミネプロジェクト)
2003年 9月  グループ展「出会いと対話」(宮城、宮城県立美術館ギャラリー)


 個展やグループ展は並んでいるが、どこかで賞を得たとか、入選したとか言う話はどこにもない。つまり鳴かず飛ばずの画家なのである。少なくとも「自称画伯」ではないらしい? と言う程度。それも多分、親の力でそうなっているだけのことであろう。

 ぼくの知っている画家に音楽(ピアノ科)の教授だった親父の七光りで、東京芸大の西洋美術の助教授になったのがいるが、それだって、安井賞入選とか、独立美術展入選とか、ある程度の箔はつけているのである。この石原延啓画伯はいわば、アマチュアの画家に毛が生えた類で、上手な素人画家でいればいいものを、それで飯を食おうとしたがために、親の力に全面的に依存せざるを得なくなったのだ。

 マスコミは、「私物化」などというステレオタイプで攻めたって、事の本質を浮き彫りにできるはずがない。
 美術というものの評価は、まったく予測がつかない。あの、嘲笑の的だったアンリ・ルソーの日曜画家的画業が、いまは美術史上画期的な業績としてピカソやゴーギャンと並ぶような評価を受けているのだから、もちろん、石原延啓氏の画業も後世になれば、あるいは高い評価を受けることになるかも知れない。それは歴史がきめることである。
 けれども、とにもかくにも、現在は彼は評価されていない。
 評価されていない息子の画業を応援したいという親の気持ちは、いつの世も変わらぬ人情であろう。けれども、その親の人情が、都税を使って行われるとなると、問題は別の次元になる。それは「私物化」というような形式的追及よりも、親の情理と都税の情理の問題として追及するべき問題である。


 石原親父都知事様、親としての情にはしのびないものがありますが、都民の税金を使ってやることではないでしょう?

 ということではあるまいか。

 表題に「楽だね」と記したが、延啓氏本人の内心は忸怩たるものがあるのではなかろうか。恥ずかしいのではないかと察する。あるいはまた、自らを才能のない画家と知っている芸術家として、いま苦しみを味わっているのかも知れぬ。父親の過剰な期待と援助が重荷になっているのかもしれぬ。画家としての良心があるのならだが。そして、彼に画家としての意気地があるのだとすれば、それはまた「父親の心が子を苦しめるの図」なのである。「子の心親知らず」なのである。
 





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Last updated  November 25, 2006 04:38:13 PM
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