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《櫻井ジャーナル》

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2010.05.04
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 1970年5月4日、米オハイオ州のケント州立大学で4名の学生が州兵に射殺されるという事件があった。事件から40周年ということもあり、アメリカの内外で取り上げられている。

 事件の背景にはアメリカ軍によるカンボジア空爆という事実があり、戦争に反対する学生が抗議活動を展開していたのだ。泥沼化したベトナム戦争から抜け出すはずだったリチャード・ニクソン政権は1969年3月、カンボジアに対する大規模な空爆を秘密裏に開始、その1週間後にカンボジア政府はアメリカ軍によるカンボジア領内の爆撃を非難、その2日後にはノロドム・シアヌーク元首相も記者会見を開き、農民、女性、子供が犠牲になっているとして爆撃の中止を求めている。

 これに対し、アメリカの大手メディアは反応せず、せいぜいニューヨーク・タイムズ紙のウィリアム・ビーチャーが「ベトコンや北ベトナムの軍事物資集積所や基地への攻撃」と書いた程度だった。

 ところが、爆撃を主導していたヘンリー・キッシンジャーはこの記事も許すことができなかった。爆撃自体が秘密だったからである。そこで、キッシンジャーはJ・エドガー・フーバーFBI長官に対し、ビーチャーの情報源を調べるように命令、それから21カ月間、政府職員13名とマスコミ関係4名に対する盗聴が続くことになった。

 その後も続いた空爆で殺されたカンボジア人は約60万人におよび、約200万人が難民になったと言われている。1975年から78年にかけてクメール・ルージュ(ポル・ポト派)に処刑されたカンボジア人は7万5000人から15万人、飢餓や病気などで死んだ人は約100万人と言われている。飢餓や病気による死にはアメリカ軍も責任があることを忘れてはならない。

 しかも、1979年にポル・ポト派政権が崩壊してヘン・サムリン政権が誕生すると、アメリカはクメール・ルージュを支援したという。ジョン・ケリー米上院議員の側近だったジョナサン・ウィナーは1986年に、「ワシントンは1980年以来、クメール・ルージュ軍に8500万ドルを提供している」と主張している。

 アメリカの大手メディアはカンボジアの空爆に関して沈黙していたが、ニクソン大統領は1970年4月30日になってカンボジアを攻撃している事実を公表、翌日にはケント州立大学の学生約500名がデモを行っている。5月2日にケント市のレロイ・サトロム市長は緊急事態を宣言、オハイオ州のジェームズ・ローズ知事に州兵の派遣を要請し、夜には部隊が同市に到着している。

 4日には抗議活動のために約2000名が集まり、行進を始めた。そして12時24分頃に州兵から銃撃されて4名が殺されたのである。犠牲になったのは抗議に加わっていたアリソン・クローズとジェフリー・ミラー、そして教室に向かっていたサンドラ・シュアーとウィリアム・シュローダーだ。事件の真相は今でも明らかにされていない。





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最終更新日  2010.05.05 03:58:58



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