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《櫻井ジャーナル》

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2013.08.31
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 今から90年前、1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、死者/行方不明者は10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達したという。復興するためには相当額の資金が必要なわけで、日本政府は外債の発行を決断する。交渉相手はJPモルガン。この巨大金融機関と最も深く結びついていたのが井上準之助だ。

 JPモルガンを率いていたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1931年までの間に融資額は累計10億円を超えたという。当然、JPモルガンは日本に大きな影響力を及ぼすようになる。日本の通貨を支配するために金本位制を強制、今の用語を使うならば、「新自由主義経済」の導入を推進させた。その結果、日本からは金が流出して不況はますます深刻化、東北地方で娘の身売りが増えることになる。

 こうした経済政策を推進した浜口雄幸首相は1930年に東京駅で銃撃されて翌年に死亡し、32年には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。井上の死と相前後する形で駐日アメリカ大使に就任したのがJPモルガンの中枢グループにいたジョセフ・グルー。

 このグルーは日米関係、いや日本の皇室とウォール街を結びつけるキーマンだった。グルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻であり、妻のアリスは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)の時代に親しくなっている。この関係は戦後の日米関係でも基盤になる。

 JPモルガンとしては、日本に融資/投資した以上、利益を上乗せして回収しなければならない。不景気で儲かりませんという弁解は許されない。どこかで稼いでこいということになる。

 歴史を振り返ると、地震の翌年に治安維持法を公布され、5年後には山東出兵、張作霖を爆殺、8年後に柳条湖の近くで満鉄の線路を爆破、9年後に「満州国」の建国が宣言された。中国侵略、要するに押し込み強盗。

 ところが、その年、アメリカではウォール街と対立関係にあったフランクリン・ルーズベルト(詳しくは拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)が大統領選挙で当選し、日本にも大きな影響を及ぼすことになる。押し込み強盗で稼ぎ、ウォール街へカネを渡すというシナリオが成り立たなくなったわけだ。

 強者総取りの政治経済システムにとって庶民の権利を主張するような人間や団体は目障り。関東大震災の対策を担当した水野錬太郎内相と赤池濃警視総監は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビで、総監は罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言した。戒厳令下では、庶民の権利は大幅に制限される。

 震災当日の夕方になると、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電、戒厳令も施行されている。水野と赤池のコンビにとって好都合な展開になったということだ。

 勿論、関東大震災の前も日本は外国の影響を受けていた。イギリスだ。明治維新の背後にイギリス(ジャーディン・マセソン商会)がいたことは有名な話。中国(清)へアヘンを押し売りして大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーを代理人として日本へ送り込んだ。

 その年、イギリスの初代駐日総領事、ラザフォード・オールコックは長州藩から5名の若者をイギリスへ留学させることを決めた。1863年に選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。この5名、物見遊山でイギリスへ行ったわけではなく、イギリス政府も慈善事業で5名をロンドンへ連れて行ったわけではない。

 イギリスへの渡航はジャーディン・マセソン商会の船が使われたが、その手配をしたのがグラバー。岩崎彌太郎、坂本竜馬、後藤象二郎らもグラバーの邸宅へ出入りしていたようだ。





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最終更新日  2013.09.01 01:20:44



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