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《櫻井ジャーナル》

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2014.04.10
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 ウクライナの東部、かつてロシア領だった地域でキエフのクーデター政権を拒否する動きが広がり、ドネツクやハリコフでは独立宣言もあったと伝えられている。暫定政権は東部や南部の住民が意思を表明することを許さない姿勢だ。

 クリミアでもそうだったが、ネオ・ナチに支配されることを人びとは望んでいない。これが民意。それを認めるわけにはいかないアメリカ政府は、アメリカの傭兵会社から戦闘員が派遣されていることに関しては口をつぐみながら、「ロシアの工作員」のせいにするしかないようだ。

 そうした動きを暫定政権は押さえ込むために傭兵を投入、軍の部隊も派遣され、ドネツクへ近づくウクライナ軍部隊に抗議する人びとの様子とされる映像がインターネット上では流れている。キエフとは違い、棍棒やチェーンが振り回されたり火炎瓶や石が投げられることもなく、ブルドーザーやトラックが持ち出されず、勿論、狙撃もないが、人びとの怒りは感じられる。

 クリミアの場合、周囲を海に囲まれているため、ネオ・ナチやアル・カイダのような集団が潜る込むことは難しく、早い段階で住民が自衛軍を編成して人の出入りをチェックしたこともあって市街が血と火の海になることは避けられた。少なからぬウクライナ軍の将兵が離脱したことも無視できない。暫定政権がウクライナ海軍の総司令官に任命したデニス・ベレゾフスキー少将のほか、多くの将兵が離脱した。

 暫定政権によると、離脱者の比率は3月下旬の段階で約半分だというが、実際はさらに多くなっただろう。ウクライナの東部でも、軍から離脱する可能性のある将兵は少なくないはずで、傭兵を雇ったり、クーデターの主力だったネオ・ナチのグループで「親衛隊」を編成したりする必要があるわけだ。

 傭兵を供給しているのは、アメリカを拠点とするアカデミ(旧社名はブラックウォーター)系列のグレイストーン。数百人の傭兵をウクライナへ派遣しているようで、セルゲイ・ラブロフ露外相によると、約150名の傭兵がウクライナのソコル(特殊機動警察)の制服を着て活動しているという。

 そのほか、ウクライナ議会は6万人規模の国家警備軍を創設する法律の制定を採択、メンバーはネオ・ナチが主体になると見られている。ちなみに、ナチス時代のドイツには軍のほかに「親衛隊」が存在した。ドイツ語では「Schutzstaffel」、つまり「防衛隊」。ウクライナでも似た組織ができたわけだ。

 ウクライナの東部や南部の住民が抵抗運動を始める中、NATO軍の司令官を務めるフィリップ・ブリードラブ米空軍大将は、アメリカ軍部隊をロシアに近い東ヨーロッパの国へ入れるかもしれないと語っている。

 前にも書いたことがあるが、ウィンストン・チャーチル英首相は第2次世界大戦の終盤、ドイツが降伏した頃にソ連を奇襲攻撃する作戦の立案をJPS(合同作戦本部)へ命じている。そして1945年5月下旬にできたのが「アンシンカブル作戦」。米英軍数十師団とドイツの10師団がソ連を攻撃することになっていたが、参謀本部が拒否して実現しなかった。(フランクリン・ルーズベルト米大統領は4月に執務室で急死している。)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、アメリカ軍の内部では1957年にソ連を先制核攻撃する計画が練られはじめ、1963年の後半に実行する予定だったという。その頃には先制攻撃に必要なICBMを準備でき、ソ連を圧倒できると判断していたようだ。ソ連の反撃を封印するため、どうしても押さえる必要のあった場所がキューバ。この計画を阻止したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。

 西ヨーロッパがソ連と友好的な関係を築くことをアメリカは嫌い、さまざまな工作、作戦を展開したが、中でも有名なものが「NATOの秘密部隊」が実行した「緊張戦略」。右翼を使い、「極左」を装って爆弾攻撃を展開している。コミュニストとも手を組もうとしていたアルド・モロ元首相が1978年に拉致、殺害されているが、これも「NATOの秘密部隊」が実行したと信じられている。

 そして1980年代の前半、NATOはソ連と軍事衝突する寸前だった。総理大臣に就任した直後、1983年1月に中曽根康弘はアメリカを訪問、その際、ソ連を露骨に敵視する発言をしている。「大きな航空母艦」や「四海峡封鎖」といった攻撃的なフレーズを使って問題になった。

 その年の春にはアメリカ海軍の三空母を中心とする機動部隊群が千島列島エトロフ島の沖に終結、大艦隊演習を展開、艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返したとも言われている。

 大韓航空007便が航路を大幅に外れ、アメリカが定めた飛行禁止空域を警告されずに飛行、ソ連の重要な軍事施設の上空を飛び、サハリン上空で撃墜されたのは1983年8月31日から9月1日にかけてのこと。大韓機が警告を受けずに飛行禁止空域を通過できたのは、NORADの担当者が怠慢だったのか、事前に許可を受けていたからだろう。

 そして11月、NATO軍は「エイブル・アーチャー83」という軍事演習を計画していたが、これをソ連は「偽装演習」だと疑い、応戦体制に入っている。ジャーナリストのクリストフ・レーマンが紹介したNATO元幹部の話によると、この当時、ヨーロッパとソ連が緊密な関係を発展させたなら、米英両国は戦争を始めることで、アメリカの軍や国防総省の意見が一致していたという。





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最終更新日  2014.04.10 22:40:55



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