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《櫻井ジャーナル》

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2014.05.23
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 42年前の5月15日、沖縄は日本へ「返還」され、米軍基地付きで142年前に始まった「琉球処分」の状態へ戻った。

 1871年7月に倒幕政権は廃藩置県を実施、独立性のあった「藩」を潰し、中央政府が派遣する知事が支配する「県」にしているのだが、その廃藩置県が行われた翌年の9月に政府は琉球藩を設置、79年4月に沖縄県を作って琉球王国を併合した。当初から琉球を日本へ組み込むつもりだったなら、廃藩置県の前に琉球藩を作っていたはず。しなかったということは、琉球を「外国」だと認識していたのだろう。

 その認識を変えさせた出来事が1871年10月に起こる。宮古島の漁民が難破して台湾へ漂着、何人かが殺されたのである。この事件を利用して大陸を侵略しようと考えた人間が政府内にいたようで、政府は清(中国)に対して被害者に対する賠償や謝罪を要求するのだが、そのためには琉球を日本だということにする必要があった。

 その後、1874年に日本は台湾へ派兵、75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると日本政府は軍を派遣、朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争へ発展する。この戦争は日本が勝利、1895年に下関で講和条約が締結された。その後の展開は省略するが、日本の沖縄支配は続く。

 こうした経緯があるため、日本の一部支配層は沖縄を日本だとは考えていない。酒席でそうしたことを口にする人もいた。昭和天皇も同じように考えていたようで、日本が降伏文書に調印した1945年9月、アメリカによる沖縄の軍事占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」のもとでおこなわれることを求めるという内容のメッセージを天皇は出している。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)

 1947年5月になると、天皇はダグラス・マッカーサーに対し、新憲法の第9条への不安を口にしている。会談内容の一部を通訳の奥村勝蔵は記者へ「オフレコ」で伝えているのだが、隠された後半部分でマッカーサーは次にように言っている。

 「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である」(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年)

 1950年4月に大蔵大臣だった池田勇人は秘書官の宮沢喜一をともなって訪米した。そのときに携えて行った「吉田茂首相の極秘メッセージ」には、アメリカ軍を駐留させるために「日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究」してもかまわないという内容が含まれていたというのだが、吉田首相は国会などで基地の貸与に否定的な発言をしている。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)

 例えば1950年7月19日の参議院外務委員会では、「軍事基地は貸したくないと考えております」と発言、「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」ともしている。吉田が国会で嘘を言ったのか、池田が運んだメッセージが吉田の意向に反するものだったのかということだろう。内容は吉田でなく、天皇の意向に合致する。

 この間、6月22日に来日中のジョン・フォスター・ダレスたちはコンプトン・パケナム東京支局長の自宅で開かれた夕食会に出ている。日本側から出席したのは、大蔵省の渡辺武(元子爵)、宮内省の松平康昌(元侯爵)、国家地方警察企画課長の海原治(自衛隊の創設に関与)、外務省の沢田廉三(岩崎弥太郎の義理の孫)だ。パケナムはイギリスの名門貴族出身で、日本の宮中とも太いパイプを持っている。

 天皇の影を感じさせるメンバーだが、この夕食会から4日後、天皇は帰国直前のダレスに対し、「多くの見識ある日本人」に会うことを勧め、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だとする口頭のメッセージを伝えたという。(前掲書)政府以外にルートを作ろうとしているように聞こえる。

 1951年1月末、ジョン・フォスター・ダレスはダグラス・マッカーサーや吉田茂と会うのだが、その3日前にアメリカの使節団は会議を開き、そこで「日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得」することを確認しているが、これは天皇がすでに事実上、認めていた。沖縄の問題はアメリカの世界戦略と昭和天皇の意思を抜きに語ることはできない。基地が沖縄に集中しているのは「日本人の責任」と言えるかもしれないが、それは問題の一部。天皇の問題を避けるのは保身だと言われても仕方がないだろう。

 この年の4月、マッカーサーはジョー・マーティン下院議員に出した手紙の中でホワイトハウスの朝鮮戦争政策を批判、これが露見して解任される。その頃、中国ではCIAの軍事顧問団が率いる約2000名の国民党軍が中国領内に軍事侵攻しているが、反撃されて失敗に終わった。その翌年にも国民党軍は中国へ攻め込み、やはり追い出されている。つまり、マッカーサーを解任したとき、ホワイトハウスはすでに中国侵攻計画を始動させていた。

 ところで、「沖縄返還」の際、日本とアメリカとの間に「密約」があったことが明らかになっている。日本政府の「公式見解」などは意味がない。

 密約はふたつある。ひとつは毎日新聞の記者だった西山太吉がつかんだ密約で、返還にともなう復元費用400万ドルはアメリカが自発的に払うことになっていたが、実際には日本が肩代わりするというもの。後に、この報道を裏付ける文書がアメリカの公文書館で発見され、返還交渉を外務省アメリカ局長として担当した吉野文六も密約の存在を認めている。

 もうひとつの密約は核にかんするもの。佐藤栄作首相の密使を務めた若泉敬によると、「重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とする」というアメリカ側の事情に対し、日本政府は「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたす」ということになっていたという。(若泉敬著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文藝春秋、1994年)

 西山は密約に関する情報を外務省の女性事務官から入手していた。マスコミは密約の内容よりも西山と女性事務官との関係に報道の焦点をあて、「ひそかに情を通じ」て情報を手に入れたとして西山を激しく攻撃する。

 1974年1月の一審判決で西山は無罪、事務官は有罪になるのだが、2月から事務官夫妻は週刊誌やテレビへ登場し、「反西山」の立場から人びとの心情へ訴え始めた。このキャンペーンにマスコミも協力する。こうしたキャンペーンが毎日新聞の経営にダメージを与え、倒産の一因になったと見る人もいる。

 この女性事務官は核兵器に関する密約を知らず、復元費用の件だけを西山に教えたのだろうか?

 ちなみに、これは一般論だが、自衛隊の情報将校だった某は工作用のエージェントを抱えていたという情報がある。ターゲットの性格に合わせ、カネなり趣味なり女性なりを利用し、日本が進む方向をコントロールするために工作を仕掛けていたのだという。





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最終更新日  2014.05.24 00:46:19



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