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数千名規模のロシア軍がウクライナに侵入したとキエフのペトロ・ポロシェンコ政権は発表、アメリカ政府は曖昧な表現で同じような主張をし、西側のメディアはその話を垂れ流した。ところがここにきて、問題の地域にロシア軍は見当たらず、「ロシア軍部隊が消えた」と伝えられている。ポロシェンコ大統領は証拠を示さず、NATOから出てきた写真にも疑問が投げかけられていただけに驚きはない。キエフ政権と西側が作り上げた幻影が消えたということだろう。
ポロシェンコ大統領がロシア軍の侵入を主張した頃、ウクライナ東部のドネツクにあるノボアゾフスクで反キエフ軍(ドネツク人民共和国の義勇軍)がキエフ軍を包囲、制圧するという事態になっていた。その後、キエフ軍の兵士を武装解除の上で解放するという方針を出したが、キエフ政権は拒否して「玉砕しろ」と命令しているようだ。重要拠点でキエフ軍が敗北、その弁明として「ロシア軍の侵攻」という作り話をした可能性もありそうだ。 反キエフ軍はウクライナ軍の将兵や退役兵が主体で住民を守り、ナチスの末裔と戦っているという使命感から士気は高い。最近はフランスやギリシャからも義勇兵が入っているようだ。 それに対し、キエフ側は正規軍の士気が低い。NATOの訓練を受けたネオ・ナチ、アメリカやポーランドの傭兵が主力で、そこにCIA、FBI、アメリカの軍事顧問が加わっているのだが、それでは対応できなくなってきた。そこで、NATOはウクライナ情勢に対応するため、イギリス軍を中心にして、デンマーク、ラトビア、エストニア、リトアニア、ノルウェー、オランダで1万人以上の統合遠征軍を編成すると伝えられている。カナダも参加する可能性があるようだ。ロシアと核兵器を撃ち合う覚悟ができたのだろうか? ここでキエフ政権の東部における民族浄化作戦を振り返ると、幕開けは4月12日。ジョン・ブレナンCIA長官がキエフを極秘訪問したのだ。その2日後にアレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行が制圧作戦を承認した。 次いで4月22日にはジョー・バイデン米副大統領がキエフを訪問、それにタイミングを合わせるようにしてオデッサでの工作が話し合われている。会議に出席したのはトゥルチノフ大統領代行のほか、アルセン・アバコフ内相代行、バレンティン・ナリバイチェンコSBU長官代行、アンドレイ・パルビー国家安全保障国防会議議長代行、そしてオブザーバーとしてドニエプロペトロフスクのイゴール・コロモイスキー知事も参加していた。コロモイスキーはイスラエル系ウクライナ人で、活動の拠点はスイス。 会議の10日後、5月2日にオデッサでクーデター政権を拒否する住民が虐殺される。この時に労働組合会館で殺されたのは50名弱とメディアではされているが、これは上の階で死体が発見された数。多くは地下室で惨殺され、犠牲者の数は120名から130名と言われている。 ウクライナ東/南部の制圧/民族浄化作戦を作成したのはアメリカ軍系シンクタンク、RANDコーポレーションだと推測されている。シンクタンク側は否定しているが、そうしたことを示す文書が見つかったのだ。 その文書によると、まず対象地域に住む人びとを「テロリスト」、あるいはその「シンパサイザー」だと考えて地域を軍隊で包囲して兵糧攻めにし、放送、電話、通信手段を断つ。ついで地上軍と航空機を組み合わせて戦略的に重要な施設を攻撃する「掃討作戦」が予定され、最後に電力や通信を復活させる。避難した住民が帰還する際、分離独立に賛成しているかどうかをチック、またこの間、外国のメディアを排除し、作戦の実態を知られないようにするともしている。 会議の前、4月下旬の段階でスラビャンスクの周囲を1万5000名以上のキエフ軍が包囲していた。オデッサの虐殺から1週間後、5月9日にはキエフ軍の戦車がドネツク州マリウポリ市に突入、住民が殺された。9日はソ連がナチスに勝ったことを記念する戦勝記念日で、少なからぬ住民が街頭へ出て祝っていた。そうした人びとを攻撃したわけである。6月2日にはデレク・チョレット米国防次官補がキエフ入りするが、そのタイミングでキエフ軍はルガンスクで住宅街を空爆、建物を破壊し、住民を殺し始めた。 キエフ軍が苦戦している最大の理由はウクライナ軍を掌握できていないことだろう。アメリカの傀儡政権のため、ネオ・ナチの命令で自国民を殺したくないと少なからぬ将兵が思っているのではないだろうか。この状態が続くと、民族浄化を成功させるためにはどこかの時点でNATO軍を投入せざるを得なくなりそうで、そのために「ロシア軍の軍事侵攻」を演出する必要があるだろうが、今回はとんだ赤っ恥をかいた。もっとも、恥知らずの西側メディアはそうした事実を無視するだろうが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.09.01 01:14:52
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