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《櫻井ジャーナル》

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2015.05.09
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 1945年5月7日、ドイツは連合国に降伏した。フランスのランスにあった連合国遠征軍総司令部で降伏文書に調印したのはドイツ軍のアルフレート・ヨーデル大将とアメリカ軍のウォルター・ベデル・スミス中将。ソ連軍のイワン・ススパロフ大将とフランスのフランソワ・スビ大将も証人として署名している。ドワイト・アイゼンハワー司令官はその場にいなかったという。

 その調印は17名の記者も目撃しているが、そのひとりでAPのパリ支局長を務めていたエドワード・ケネディはその事実を記事にし、それが原因で解雇されている。しばらく降伏の事実を秘密にしておくという約束を破ったからだというが、ドイツがラジオのニュースで報道したことから隠しておく意味がなくなったと判断したようだ。

 1941年6月にドイツがソ連の制圧を目指してバルバロッサ作戦を開始、42年から翌年の2月までスターリングラード(現在のボルゴグラード)で激しい戦闘が繰り広げられたが、この間、イギリスとアメリカは傍観している。フランクリン・ルーズベルト米大統領はソ連を支援する意向を示していたと言われるが、アメリカ支配層の総意は違った。

 状況が変わるのは、ドイツ軍が全滅、ソ連軍の反撃は始まってから。1943年7月にアメリカを中心とする部隊がシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土を制圧、44年6月にはノルマンディー上陸作戦を敢行し、パリを占領した。ウクライナのヤルタでアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が「戦後」について会議を開いたのは1945年2月のことだ。

 スターリングラードでの攻防戦が行われている最中、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探り、44年にはドイツ陸軍の情報部門、参謀本部第12課(東方外国軍課)の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将がOSS(アメリカの戦時情報機関)のアレン・ダレスたちと接触している。この人物は兄のジョン・ファスター・ダレスと同じようにウォール街の大物弁護士だ。

 アレン・ダレスの側近の中にジェームズ・アングルトンという男がいる。イタリアを拠点に活動していた人物で、父親のヒュー・アングルトンもダレスの情報活動の仕事をしていた。ヒューはファシストと緊密な関係にあり、それにダレスが目をつけたということのようだ。

 本ブログでは何度も書いているように、アメリカでは1932年の大統領選挙で大企業の活動を制限し、労働者の権利を拡大すべきだと主張するニューディール派のリーダー、フランクリン・ルーズベルトが勝利、その翌年からウォール街のグループは反ルーズベルトのクーデターを計画している。ファシズム体制の政権を作ると記者の取材に答えている。そのグループの中心が日本に大きな影響力を持っていたJPモルガン。

 ウォール街はナチスを資金面から支援していたことも明確になっている。その仕組みで中心的な役割を果たしていたのがディロン・リードやブラウン・ブラザーズ・ハリマンといった金融機関。こうした巨大資本は第2次世界大戦後、日本を「右旋回」、つまり「戦前回帰」させたジャパン・ロビーのスポンサーでもあった。

 ブラウン・ブラザーズ・ハリマンはW・A・ハリマンがブラウン・ブラザーズを買収してできた会社で、W・A・ハリマンが創設された1919年当時に社長を務めていた人物がジョージ・ハーバート・ウォーカー。その孫がジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュであり、ひ孫がジョージ・ウォーカー・ブッシュ。つまり、第41代アメリカ大統領と第43代アメリカ大統領だ。

 1945年初頭にダレスたちはSSの高官だったカール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。サンライズ作戦だ。そして1945年5月にドイツは無条件降伏、同時にゲーレンはCIC(米陸軍対敵諜報部隊)へ投降するが、その際、ソ連に関する情報を記録したマイクロフィルムを携帯していた。ウォール街やナチスにとって好都合なことに、その前の月にルーズベルトは執務室で急死している。

 ドイツの降伏を受け、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連を奇襲攻撃しようとする。首相だった彼はソ連に軍事侵攻するための作戦を立案するようにJPS(合同作戦本部)へ命令、「アンシンカブル作戦」が作られた。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、これは参謀本部の反対で実現しなかった。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)

 チャーチルは1945年7月に下野するが、「民間人」としてもソ連攻撃を目指して活動している。例えば、イギリスのデイリー・メール紙によると、彼は1947年にアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたという。「冷戦」が始まった後、1951年にチャーチルは首相へ返り咲いた。

 イギリスにはアメリカ、日本、そしてファシストと連合してソ連を攻撃したいと考える人びとがいたようで、チャーチルもそうした人脈に属していたということだろう。これはウォール街と共通。こうした米英の親ファシスト派によってスイスで創設されたとされているのがBIS(国際決済銀行)だ。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)

 アメリカの支配層は大戦後、ナチスの残党や協力者の逃走を助け、保護、さらに雇用したことが知られている。いわゆるの「ブラッドストーン作戦」だ。また、ナチスの科学者を保護し、自分たちの研究開発に役立てようという「ペーパークリップ作戦」を実行している。

 1948年にアメリカの「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、その翌年に出された統合参謀本部の研究報告ではソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)ことになっていた。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、こうしたグループは1957年初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃計画をスタートさせ、1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だった。そのころ、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。ソ連は中距離ミサイルで対抗するしかなく、そのためにアメリカとソ連はキューバに目をつけた。

 ソ連を先制核攻撃しようと目論んでいたアメリカ軍の好戦派のひとりがカーティス・ルメイ。1964年に日本政府が「勲一等旭日大綬章」を授与した軍人だ。

 1945年2月にアメリカとイギリスの空軍はドイツのドレスデンを爆撃、2万2700名から2万5000名の市民が殺され、3月には東京が空襲されて10万人以上の市民が焼き殺されたと推計されている。8月には広島と長崎に原爆が落とされて多くの人が殺されつつあるのだが、こうした市民虐殺の作戦を指揮していたのがルメイであり、1945年3月から8月の間に彼が殺した日本の民間人は100万人以上だとも言われている。その後、朝鮮戦争でも市民を虐殺する。

 現在、アメリカの好戦派はウクライナでネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を使っているが、これは必然。第2次世界大戦が終わる前から彼らはナチスと共同でソ連を侵略、占領、略奪しようと目論んできたのだ。





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最終更新日  2015.05.09 17:56:40



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