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《櫻井ジャーナル》

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2015.06.19
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 選挙権年齢が20歳から18歳へ引き下げられるという。ベトナム戦争の最中、1965年に「明日なき世界」という歌がヒットしたが、その中で「人殺しのできる年齢だが、選挙権はない」というフレーズが出てくる。選挙権を行使できる年齢を20歳のままにしておくと、18歳の若者を戦場へ送り込もうとした時にそうした反応が返ってくるだろうが、選挙権を得る年齢を下げておけば、そうした批判はできない。

 年齢面で入隊の問題がなくなったとしても、入隊したいという若者がいるかという問題が残る。ベトナム戦争中、アメリカは徴兵制があったのだが、政財界などの大物の子ども向けに、危険な任務にはつかない部隊を作っていた。いわゆる「シャンパン部隊」だ。日本で徴兵制を導入したなら、支配層の子どもが戦場へ送られないようにそうした部隊を作るか、別の徴兵回避システムを考えることになるだろう。

 ジョージ・W・ブッシュもシャンパン部隊に所属していたが、同じ部隊にはロイド・ベンツェン、ジョン・コナリーのような政界の大物、あるいはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てきた富豪のH・L・ハントたちの息子もいた。

 徴兵制がなくても労働環境を悪化させておけば兵士の補充は可能だ。低賃金の派遣労働を拡大させ、戦闘員が必要になったら派遣切りすれば良い。戦乱で経済が疲弊している中東ではサウジアラビアなどのペルシャ湾岸産油国がカネを出しているアル・カイダ系の武装集団やIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)に魅力を感じる若者もいるようだ。アメリカでも似たことが行われている。

 有権者年齢の引き下げや不安定雇用の拡大と並行し、安倍晋三政権は集団的自衛権を行使するため、安全保障関連法案(戦争法案)を成立させようと暴走中だ。2000年にジョセフ・ナイとリチャード・アーミテージを中心とするグループが作成した「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて(通称、アーミテージ報告)」は武力行使を伴う軍事的支援を日本に求め、「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している」と主張、「この禁止を解除すれば、より緊密かつ効果的な安保協力が見込まれる」としている。

 つまり、集団的自衛権はアメリカ側の命令で、「武力行使を伴う軍事的支援」も想定されている。当然、安倍政権もそのつもりだろう。「仮想敵国」は言うまでもなく中国。防衛省の幹部は「オフレコ」という条件で、今なら中国に勝てるが、10年後には勝てないとマスコミ幹部に話しているようなので、開戦を先の話だとは思っていないだろう。そう考えると、安倍政権が焦っている理由がわかる。

 アメリカのネオコンなど好戦派は1992年にDPGの草稿、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」を作成し、世界制覇プロジェクトを始動させた。その2年後、国防大学のスタッフだったグリーンとパトリック・クローニンがカート・キャンベル国防次官補を介してジョセフ・ナイ国防次官補やエズラ・ボーゲルに会って日本の属国化を主張、95年の「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」につながる。1997年には「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が作成され、「日本周辺地域における事態」で補給、輸送、警備、あるいは民間空港や港湾の米軍使用などを日本は担うことになった。「アーミテージ報告」は、その3年後だ。

 何度も書いてきたが、日本の政策はアメリカ支配層の意向に左右される。アメリカと緊密な関係にあるイギリスでは1945年5月、ドイツが降伏した直後にJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連を攻撃する作戦を作成するように命じた。そして作られた「アンシンカブル作戦」では、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第三次世界大戦」を始めることになっていた。

 この直後にチャーチルは下野するが、1946年3月にアメリカのミズーリ州で「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の幕開けを宣言、47年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員に会い、ソ連を核攻撃してクレムリンを消し去るようにハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ

 1948年には破壊活動を行う目的でOPCという極秘機関がCIAの外に組織され、ナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」も開始される。1949年にはNATOが創設されるが、その内部に秘密部隊が設置された。中でもイタリアのグラディオは有名で、1960年代から80年頃まで「極左」を装って爆弾攻撃を繰り返した。いわゆる「緊張戦略」で、社会不安を高め、アメリカ支配層にとって目障りな勢力を衰退させ、治安体制を強化されたのである。

 1957年初頭にアメリカではソ連を核兵器で先制攻撃する「ドロップショット作戦」がスタート、300発の核爆弾をソ連の100都市に落とし、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、作戦に必要なICBMを準備できるのは1963年の終わりだと好戦派は見通していた。日本とも関係の深いカーティス・ルメイを含む好戦派は、核兵器を「抑止力」とは見ていない。先制攻撃でソ連を消滅させる攻撃兵器と考えている。

 1961年に大統領はドワイト・アイゼンハワーからジョン・F・ケネディに交代、4月には前政権が始めたキューバ侵攻作戦を実行するが、新大統領はアメリカ軍の直接的な介入は拒否した。7月になると軍や情報機関の幹部が新大統領に核攻撃のプランを説明したが、新大統領はこの計画に否定的な反応を示す。

 その当時、アメリカに対抗できるICBMを持っていなかったソ連は中距離ミサイルで対抗するしかない。そこでキューバへミサイルを運び込んだ可能性がある。そこでミサイル危機になるが、これを話し合いで乗り越えたケネディ大統領は1963年6月、アメリカン大学の卒業式でソ連との平和共存を訴えた。

 この演説でケネディは軍事力で世界を支配する「パックス・アメリカーナ」を否定し、「互いに寛容な心をもって共存し、その紛争を公正で平和的な解決方法」に委ねるように求め、「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」と警鐘を鳴らし、相手国に対して「屈辱的な退却か核戦争か」を強いるのではなく、緊張の緩和を模索するべきだとしている。「われわれは人類壊滅の戦略に向かってではなく、平和の戦略に向かって努力し続けるのです」と言ってケネディ大統領は演説を終えた。

 1963年11月22日にケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺されるが、その翌年に戦争をテーマにした3つの映画が公開されている。一司令官の暴走でソ連を先制核攻撃するというスタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」、クーデターを主題にしたジョン・フランケンハイマー監督の「5月の7日間」、そしてシドニー・ルメット監督の「フェイルセイフ」だが、「5月の7日間」の制作を勧めたのはケネディ大統領自身。ケネディはクーデター計画の存在に気づいていた可能性がある。

 1992年に作成された「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」に基づいてアメリカが世界制覇プロジェクトを推進していると本ブログでは何度も書いたが、その中心にいるネオコンはアメリカを「唯一の超大国」とみなし、軍事力で世界を支配、公教育や医療制度を破壊して戦争ビジネスにカネを投入、ロシアや中国を含む国々に「屈辱的な退却か核戦争か」を強いている。そうしたアメリカの好戦派に従属しているのが安倍政権であり、安倍政権に従っているのが日本のマスコミだ。





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最終更新日  2015.06.20 05:04:02



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