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《櫻井ジャーナル》

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2015.09.11
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 14年前の9月11日にニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された。この出来事を利用してアメリカの支配層は憲法が保証する諸権利を庶民から奪い、軍事侵略を本格化させていく。

 アメリカの支配層が憲法の機能を停止させる準備を始めたのは1982年。「NSDD(国家安全保障決定指示)55)」が出されて「COG(政府継続)プロジェクト」が承認されたのである。その翌年に署名された「NSDD77」によって相手国を偽情報で混乱させ、文化的な弱点を利用して心理戦を仕掛けるという「プロジェクト・デモクラシー」もスタートした。

 当初、COGは核戦争への準備が目的だった。本ブログでは何度も書いているように、アメリカは1950年代からソ連に対する先制核攻撃を計画していたが、その際に本来の政府が機能しなくなった場合に備えて「秘密政府」の閣僚候補8名が選ばれていた。それが1979年にFEMAとして浮上する。

 その延長線上にCOGはあるのだが、1988年に出された「大統領令12656」によって核戦争だけでなく、あらゆる「国家安全保障上の緊急事態」に対応するようになった。これによって政府が主観的に緊急事態だと判断すれば、憲法を停止、「地下政府」を設置することができるわけだ。

 2001年9月11日の出来事をジョージ・W・ブッシュ政権はそうした緊急事態だということにしたようで、「愛国者法(テロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年法 (注))」を成立させている。1980年代から始まった憲法の機能を停止させるプロジェクトが始動したわけだ。

 軍事侵略は1992年に国防総省で作成されたDPGの草案、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」が基盤になっている。ネオコン/シオニストの中核的グループに属するポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)たちが作成したことから、こう呼ばれている。1991年12月にソ連が消滅し、ロシアがアメリカの属国になったことを受け、旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアを支配するとしている。

 2001年9月11日の前後で不可解なことが起こっている。その一例が軍事演習。事件の当日、NRO(国家偵察局)は航空機がビルに突入した場合の対応をテスト、NORADの「ノーザン・ビジランス(北の警戒)作戦」ではレーダー・スクリーン上に偽のブリップ(光点)を表示させていたという。

 NORADが2001年5月31日から6月4日まで実施した「アマルガム・バーゴ01」では、地形に沿って飛行する巡航ミサイルでアメリカの東海岸が攻撃されるという設定になっていたが、演習のシナリオが書かれた文書の表紙にはオサマ・ビン・ラディンの顔写真が印刷されていた。このほかにも演習、訓練があり、当日は実際の出来事と演習/訓練が混同されてパニックになったとも言われている。

 攻撃の直後、ブッシュ・ジュニア政権はすぐにアル・カイダが実行したとする情報を流しているが、ロビン・クック元英外相が明らかにしたように、このアル・カイダはCIAに雇われ、訓練を受けた数千人におよぶ「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイル。アル・カイダとはアラビア語で「ベース」を意味し、「データベース」の訳語としても使われる。オサマ・ビン・ラディンがアル・カイダを率いているわけではないということだ。

 このオサマ・ビン・ラディンはサウジアラビアの富豪一族に属し、ズビグネフ・ブレジンスキーの秘密工作でソ連軍をアフガニスタンへ引き込んだ際、ソ連軍と戦う戦闘員を集める仕事をしていたという。オサマ・ビン・ラディンの活動を指揮していたのはサウジアラビアの総合情報庁長官を務めていたタルキ・アル・ファイサルだった。

 ビン・ラディンを工作の世界へ誘ったのはアブドゥラ・アッザムなる人物。サウジアラビアのアブデル・アジズ国王大学で教えていたことがあるのだが、そこでの教え子の中にオサマ・ビン・ラディンもいた。1984年にアッザムとビン・ラディンは礼拝事務局をパキスタンに設立、アル・カイダを生み出す。

 ところで、9月11日の攻撃当時、オサマ・ビン・ラディンは重度の腎臓病で治療を受けていた。攻撃の2カ月前にはドバイの病院に入院、フランスのフィガロ紙(2001年10月11日付け)によると、CIAの人間が会いに来ているという。そのほか、サウジアラビアやアラブ首長国連邦の著名人が訪問している。CBSニューズのダン・ラザーによると、攻撃の前日、2001年9月10日にオサマ・ビン・ラディンはパキスタン軍の病院に入院していた。この報道が正しいなら、アメリカ政府はオサマ・ビン・ラディンがいないことを承知でアフガニスタンを攻撃した可能性が高まる。

 そして、2001年12月26日付けアル・ワフド紙(エジプトで出されている新聞)には、オサマ・ビン・ラディンの死亡記事が掲載されている。その10日前、肺の病気が原因で死亡し、トラ・ボラで埋葬されたというのだ。

 そのトラ・ボラは2001年11月にアメリカ軍のB-52が空爆しているのだが、病人がそこにいて殺されたとは考えにくい。アル・ワフド紙の記述が正しいなら、病院で死亡した後、そこで埋葬されたということだろう。2011年5月、パキスタンでアメリカ海軍の特殊部隊「NSWDG(通称、DEVGRU、またはSEALチーム6)」にオサマ・ビン・ラディンが殺されたという話は嘘だということにもなる。実際、アメリカ政府が宣伝しているオサマ・ビン・ラディン殺害ストーリーを否定する証言があり、殺害の証拠も示されていない。単に「アメリカ政府を信じろ」と言っているだけだ。

(注)「Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001」のイニシャルをとってUSA PATRIOT Act)





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最終更新日  2015.09.12 13:17:33



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