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《櫻井ジャーナル》

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2015.10.06
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 安倍晋三政権は「安全保障関連法」を強行採決、日本をTPP(環太平洋連携協定)へ参加させようとしている。自衛隊をアメリカの「戦争マシーン」へ組み込み、それだけでなく日本の住民、自然、社会、文化などをアメリカへ献上するつもりだ。それが自分たちの個人的な利益になると考えているからだろう。そのシナリオを書いたのは官僚だろうが、その官僚を含む日本の「エリート」は大まかに言って2種類に分けられる。親が支配階級に属しているか、受験競争を勝ち抜いたかだ。

 受験競争を勝ち抜いたということは、出題者が望む解答を書く能力に長けていることを意味、思考力はむしろ邪魔になる。そうした「エリート」は自分たちで考えず、「権威」や「強者」が何を望んでいるかを知ることに集中する。日本の「エリート」がアメリカの命令に従うのは必然だということ。マスコミには「エリート」の落ちこぼれが少なくないため、競争の「勝ち組」には弱く、あわよくば自分も「勝ち組」だと見なされたいと思っている。

 現在の日本は薩摩藩や長州藩を中心とする勢力のクーデター、いわゆる「明治維新」から始まる。そのクーデター派の背後に存在していたイギリスは19世紀の半ばに清(中国)を軍事侵略している。つまり、1840年から42年にかけてのアヘン戦争と1856年から60年にかけてのアロー戦争だ。清との貿易が大幅な赤字になったイギリスはアヘンを売りつけることにし、その結果の戦争だった。勿論、イギリスは麻薬を売りつけるだけでなく、清に蓄積されていた富を奪おうとしていたはずだ。

 アロー戦争の最中、1858年にイギリスは日本と修好条約を締結、その翌年には麻薬取引で大儲けしていたジャーディン・マセソン商会がトーマス・グラバーという人物をエージェントとして送り込んでいる。1859年にイギリスは長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決め、63年には藩主の命令で井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)がロンドンに渡る。この時に使われた船はジャーディン・マセソン商会の船で、グラバーが渡航を手伝った。

 1867年にグラバーは岩崎弥太郎、坂本龍馬、後藤象二郎らと盛んに接触、68年には佐賀閥に接近して高島炭坑の開発に乗り出し、戦乱の拡大を見越して武器取引に力を入れるのだが、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城が平穏に明け渡され、戦争は終結する。イギリスは徳川幕府と薩長との戦争が長引き、両者が疲弊することを望んでいたのだろうが、その思惑通りには進まなかった。その結果、1870年にグラバーの会社は資金繰りが悪化して倒産するが、81年に岩崎の三菱本社が渉外関係顧問に迎え入れている。

 1868年に明治体制がスタート、71年7月には強い自治権を持っていた藩を廃し、中央政府の官僚が支配する県を置く。廃藩置県だが、その後、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置、79年に沖縄県を作る。廃藩置県を実施した際、明治政府は琉球国を日本領とは見なさず、日本領にしたいとも思っていなかったということである。その方針を変更させる状況が生じた。

 そうした不自然なことが行われる切っ掛けになったのは、1871年10月に起こった宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、何人かが殺されたとされる事件。日本政府は清に対して被害者に対する賠償や謝罪を要求するが、そのためには琉球国が日本領だという形が必要だった。

 この時、日本に台湾派兵を勧めた人物がいる。1872年に来日した厦門駐在アメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダーだ。外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧め、それ以降、75年まで外務省の顧問を務めることになる。日本が台湾へ軍隊を派遣したのは1874年のことだった。ちなみに、2003年に公開されたトム・クルーズ主演の映画「ザ・ラスト・サムライ」は、このアメリカ人をモデルにしたことになっているが、その実態は映画と全く違った。

 1875年には李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ明治政府は軍艦を派遣して挑発する。「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。条規の批准交換にル・ジェンダーも陪席した。

 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こるが、それを好機と見た日本政府は軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながる。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記す。その年の10月、日本公使だった三浦梧楼を中心とするグループは高宗の王妃、閔妃を含む女性3名を殺害した。

 1904年に日本は帝政ロシアと戦争を始めるが、その戦費を融資したのはロスチャイルド系のクーン・ローブ。その金融機関を統轄していたジェイコブ・シッフと最も親しかった日本人は高橋是清だ。(JPモルガンと最も緊密な関係を築いていた日本人は井上準之助。)

 その間、1891年にはイギリスで重要な出来事があった。セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、エッシャー卿(レジナルド・バリオル・ブレット)、ロスチャイルド卿(ネイサン・ロスチャイルド)、サリスバリー卿(ロバート・ガスコン-セシル)、ローズベリー卿(アーチボルド・プリムローズ)、ミルナー卿(アルフレッド・ミルナー)が会談、アングロ・サクソンが人種の頂点に位置しているとし、ドイツを敵視することを明確にした。

 現在でも生きている「ハートランド理論」をハルフォード・マッキンダーが発表したのは1904年。彼によると世界は3つ、第1にヨーロッパ、アジア、アフリカの「世界島」、第2にイギリスや日本のような「沖合諸島」、そして第3に南北アメリカやオーストラリアのような「遠方諸島」に分けられる。「世界島」の中心が「ハートランド」で、具体的にはロシア。

 広大な領土、豊富な天然資源、そして多くの人口を抱えるロシアを締め上げるためにマッキンダーは西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ「内部三日月帯」を、その外側に「外部三日月地帯」を想定した。パレスチナにイスラエルを作った理由のひとつはこの辺にあるだろう。(大多数のユダヤ教徒はパレスチナへ移住する気持ちはなかった。)ロシア制圧のカギはウクライナが握っていると主張したのはズビグネフ・ブレジンスキーだ。

 この段階でイギリスはドイツとロシアを戦わせ、両国を疲弊させようとしたはず。それが第一次世界大戦で実現する。当時、帝政ロシアは地主貴族と資本家の2本柱で支えられていたのだが、地主は農作業の担い手を取られたくないので戦争に反対したのに対し、戦争で儲けたい資本家は賛成していた。そうした中、1917年3月に「二月革命(ロシア歴では2月)」が起こってロマノフ朝は崩壊、資本家が主導権を握る臨時政府が誕生した。

 それに対し、ドイツは戦争に反対していたボルシェビキに目をつける。亡命していたり刑務所に入れられていたことからボルシェビキの指導部は二月革命に参加していなかったが、その指導者たちをドイツがロシアへ戻したのだ。そして11月の「十月革命」につながる。ボルシェビキ政権は即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止を打ち出した。ソ連嫌いからボルシェビキとイギリス支配層を結びつける人もいるが、無理がある。

 この後、ドイツではアドルフ・ヒトラーが台頭してくるが、その背後にウォール街が存在していたことが明らかになっている。1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とするアメリカの巨大資本はフランクリン・ルーズベルト大統領を排除したファシズム体制の樹立を目的としたクーデターを計画したが、根は同じ。このクーデター計画はスメドリー・バトラー少将の議会証言で明るみに出ている。ヒトラーはドイツとソ連/ロシアを破壊するために作られたモンスターだと言えるだろう。

 現在、アメリカ支配層は世界制覇プロジェクトを死にものぐるいで推進している。そのプロジェクトが明らかになったのは1992年。この年に国防総省で作成されたDPGの草案はアメリカが「唯一の超大国」になったと位置づけ、世界制覇を実現するために潜在的なライバル、つまり旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどを潰し、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアを支配するとしている。が、その遥か前、1891年にアングロ・サクソンは世界制覇を妄想し始め、その段階から日本は取り込まれている。





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最終更新日  2015.10.07 12:28:09



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