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《櫻井ジャーナル》

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2015.12.24
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 67年前の12月23日、7名の戦犯が巣鴨拘置所で処刑された。このうち「A級(平和に対する罪)」が理由にされたのは土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章、東条英機の6名、松井石根は1937年12月に南京を占領した際に行われた虐殺などの責任を問われての処刑、つまり「A級」ではない。そして処刑の翌日、クリスマス・イブに岸信介、児玉誉士夫、笹川良一を含むA級戦犯容疑者19名が巣鴨拘置所から釈放された。翌年の3月にGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は極東国際軍事裁判の打ち切りを決定している。

 1976年2月、アメリカ議会でロッキード社による買収が明らかにされ、7月には田中角栄が受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された。この事件に絡み、岸や児玉がCIAから多額の資金を提供されていたとする報道がアメリカであり、占領時代の暗部が注目されるのだが、日本の大手マスコミは現在に至るまで本気で注目しているようには見えない。

 ロッキード社が秘密裏の支払いに利用したというディーク社は「CIAの金融機関」のひとつ。創設者のニコラス・ディークはアメリカの戦時情報機関OSSの出身で、1953年にアメリカとイギリスが共同で実行したイランのクーデター工作、ベトナム戦争での秘密工作で資金を動かしていた。ベトナム戦争でCIAは麻薬の密輸に手を出していたが、その資金もオーストラリアのナガン・ハンド銀行と同じように扱っていたようだ。

 ベトナム戦争での秘密工作には米空軍のリチャード・シコード、陸軍のジョン・K・シングローブ、海兵隊のオリバー・ノース、CIAのセオドレ・シャックレーなど後に「イラン・コントラ事件」で名前が浮上する人物も参加している。海軍兵学校でノースより1年上だったリチャード・アーミテージも秘密工作に関係、元グリーン・ベレーのジェームズ・グリッツ中佐によると、アーミテージは麻薬取引で犯罪組織とアメリカ政府をつなぐキーマンだった。麻薬取引の大物として知られているクン・サの証言に基づく情報で、その証言は映像に記録され、1987年6月には映像のコピーが上院の情報委員会委員長や麻薬委員会委員長、下院の麻薬管理に関する外交特別委員会委員長などに配布されている。(James "Bo" Gritz, "Called to Serve," Lazarus Publishing, 1991)

 ロッキード事件が発覚する前、アメリカの政界は大混乱になっていた。ベトナム戦争で疲弊していたアメリカの経済は1970年代に入ると破綻、リチャード・ニクソン大統領は71年にドルと金の交換を停止すると発表、73年から世界の主要国は変動相場制へ移行していく。そうした最中、1972年6月にCIAの秘密工作部隊に所属していたグループが民主党全国委員会本部に侵入したところを逮捕される。「ウォーターゲート事件」の幕開けである。

 経済破綻後のアメリカを支えるために考えられたのがペトロダラー。基軸通貨であるドルを発行することで物を買い、支払ったドルは石油取引の仕組みを使って回収しようというものだ。石油価格が上昇すれば市場が拡大し、効率は良くなる。実際、1973年10月の第4次中東戦争を切っ掛けにして石油価格は4倍に引き上げられたのだ。ここで、この戦争に至る過程を振り返ってみよう。

 まず思い出すのは、PLOのヤセル・アラファト議長を支えていたエジプトのマール・ナセル大統領が52歳の若さで1970年9月に心臓発作で急死したこと。ナセルの後任大統領は「元イスラム同胞団」で、ヘンリー・キッシンジャーに操られていたアンワール・サダト。このサダトが1973年10月、イスラエルに対して奇襲攻撃を仕掛けたのだが、その黒幕はキッシンジャーだった。この戦争でイスラエル政府は核兵器の使用を議論したと言われている。

 開戦の5カ月前、石油に関する重要な取り決めたあったと主張しているのはザキ・ヤマニ元サウジアラビア石油相。彼によると、「1973年5月にスウェーデンで開かれた秘密会議」で石油価格の値上げが決められたというのだ。該当するのはビルダーバーグ・グループの会議だ。その会議でアメリカとイギリスの代表は400パーセントの原油値上げを要求したという。

 しかし、サウジアラビア国王は石油価格の値上げを嫌う。ライバルを増やし、代替エネルギー源の開発を促進させると考えたようだが、イラン国王はヤマニに対し、「なぜ原油価格の値上げに君たちは反対するのだ?そう願っているのか?ヘンリー・キッシンジャーに聞いてみろ、値上げを望んでいるのは彼なんだ」と言ったという。

 さらに投機の規制を緩和してドルを吸収しようともする。そうしたマルチ商法的な仕組みを正当化する「理論」を考えたのがシカゴ大学のミルトン・フリードマンたちだ。その「理論」を実践した最初のケースが1973年9月11日にチリで実行されたオーグスト・ピノチェトの軍事クーデター。黒幕はキッシンジャーだった。

 この頃、デタント(緊張緩和)へ舵を切ろうとしていたニクソン大統領に対する攻撃が強まり、1974年8月に辞任する。副大統領からジェラルド・フォードが大統領に昇格すると好戦派が主導権を握る。その中には後にネオコンと呼ばれるようになる親イスラエル派も含まれていた。

 1975年11月にホワイトハウスは政府高官の入れ替えを発表、ジェームズ・シュレシンジャー国防長官が解任されてドナルド・ラムズフェルドが後任の長官に選ばれ、76年1月にはCIA長官がウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ交代する。ラムズフェルドの後任大統領首席補佐官はリチャード・チェイニー。このときの粛清劇で中心的な役割を演じたのは、このラムズフェルドとチェイニーだと言われている。

 コルビーはCIAの違法活動を議会で証言した人物で、好戦派の内部では裏切り者と見なされていた。その当時、ブッシュを情報機関と無関係の素人だと思っていた人が少なくないが、実際はエール大学でCIAにリクルートされた可能性が高く、ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたときにはCIAの幹部だったことがFBIの文書で明らかになっている。ジョージの父親、プレスコットはアレン・ダレスと親密な関係にあった。

 1948年12月24日に釈放された戦犯容疑者はCIAと深く結びつき、現在に続く。特高や思想検察の人脈は戦後も生き続け、マスコミの責任も問われなかった。極東国際軍事裁判が「戦争犯罪」を裁くことが目的だったとするならば、起訴しなければならなかった多くの人が不問に付されているのはさらに奇妙な話だ。1933年にアメリカでフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任する前の日米主従関係を復活させるための儀式にすぎなかったという見方もある。





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最終更新日  2015.12.25 02:23:17



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