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《櫻井ジャーナル》

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2016.05.18
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 アメリカにはNED(民主主義のための国家基金)なる団体が存在している。1983年にアメリカ議会が承認した「民主主義のための国家基金法」に基づいて創設され、政府の資金をNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターなどへ流しているのだが、その資金はCIAの秘密工作に使われてきた。USAID(米国国際開発庁)とも緊密な関係にある。

 NEDは「NGO(非政府組織)」だとされているが、実態はCIAと密接な関係にある機関。名称に「民主主義」が含まれているものの、勿論、本当に民主主義を望んでいるわけではなく、アメリカ支配層にとって邪魔な存在を倒すために「民主主義」という旗を掲げながら介入、不安定化を図り、あわよくば倒してしまうことが目的で、多くの場合、狙われるのは民主的に選ばれた政権。タグで人びとを騙すというアメリカ支配層の常套手段だ。

 こうした仕組みを作るベースになっているのが「プロジェクト・デモクラシー」。偽情報を流してターゲットを混乱させ、文化的な弱点を利用、心理戦を仕掛けて相手国の人びとを操ろうとしたのだ。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)1983年にロナルド・レーガン大統領がNSDD77に署名してスタートした。この時期、憲法の機能を停止させるためのプロジェクトCOGも始まっている。

 1978年10月にポーランド出身のカロル・ユゼフ・ボイティワがローマ教皇ヨハネ・パウロ2世になったが、その前からアメリカ支配層はバチカン銀行(IOR/宗教活動協会)を利用してポーランドの反体制派へ資金や機器を提供していた。これが「プロジェクト・デモクラシー」の原型になったと言えるだろう。

 ポーランド工作の一端はイタリアの大手金融機関アンブロシアーノ銀行が倒産したことで発覚する。この銀行はポーランドの反体制労組「連帯」を支援するため、不正融資していたのだ。(David A. Yallop, “In God`s Name”, Poetic Products, 1984)

 それ以外にも連帯へは当時のポーランドでは入手が困難だったファクシミリのほか、印刷機械、送信機、電話、短波ラジオ、ビデオ・カメラ、コピー機、テレックス、コンピュータ、ワープロなどが数トン、ポーランドへアメリカ側から密輸されていた。

 こうした工作の背後にはCIAが存在していたのだが、連帯はCIAとの関係を隠そうとしていなかった。その指導者だったレフ・ワレサも自伝の中で、戒厳令布告後に「書籍・新聞の自立出版所のネットワークが一気に拡大」したと認めている。(レフ・ワレサ著、筑紫哲也、水谷驍訳『ワレサ自伝』社会思想社、1988年)

 1947年7月に発効した「国家安全保障法」に基づいてCIAは創設される。第2次世界大戦中、アメリカにはOSSという情報機関が存在していたが、戦争が終わると、平時に情報機関はいらないとする意見があり、破壊活動は行わないという条件で1946年1月にCIGが設立され、CIAになった。破壊工作(テロ活動)を行うOPCがCIAの外に作られたのはそのためだ。元ナチ、あるいは元ナチ協力者をCIA内のOSOが追跡する一方、OPCが逃亡を助け、保護するということも起こっている。

 しかし、1950年10月にOPCはCIAの内部に潜り込み、翌年の1月にはアレン・ダレスがOPCとOSOを統括する副長官としてCIAに乗り込んできた。ダレスはウォール街の大物弁護士で、戦争中はOSSの幹部としてスイスで活動していた。ダレスをOSSへ引っ張ってきたのは長官だったウィリアム・ドノバンだが、この人物もウォール街の弁護士。OPCを事実上、指揮していたのはダレスで、OPCの形式的なトップはダレスの側近だったフランク・ウィズナー。この人物もウォール街の弁護士だ。

 OPCとOSOは1952年8月に統合されて「計画局」になり、秘密工作を監督するために「工作調整会議」が設置された。まずC・D・ジャクソンが議長に就任、1954年にはネルソン・ロックフェラーが引き継いだ。ジャクソンはライフ誌の発行人として知られているが、大戦の終盤、1943年から45年にかけてOSSに所属、戦後は心理戦に関する大統領顧問を務めている。

 1953年の夏にCIAはイギリスの情報機関MI6と手を組んでイランの合法的に選ばれたムハマド・モサデク政権をクーデターで倒し、傀儡の王制を復活させる。その一方、この年にCIAは巨大資本のユナイテッド・フルーツ(1970年にユナイテッド・ブランズ、84年からチキータ・ブランズに名称を変更)の利権を守るためにグアテマラでもクーデターを計画、内戦で庶民が殺されることを避けようとしたヤコボ・アルベンス・グスマンは1954年6月に大統領官邸を離れている。

 しかし、その後のグアテマラは悲惨で、クーデター政権は労働組合の結成を禁止、ユナイテッド・フルーツでは組合活動の中心にいた7名の従業員が変死している。クーデター直後にコミュニストの疑いをかけられた数千名が逮捕され、その多くが拷問を受けたうえで殺害されたというが、その後40年で殺された人の数は25万人に達するという。このクーデターを目撃したひとりがエルネスト・チェ・ゲバラ。キューバが生き残っている一因は、アルベンス政権の失敗に学んだことにある。

 その後もCIAは世界各地で暗殺やクーデターを繰り返し、1973年9月11日にはチリのサルバドール・アジェンデ政権を軍事クーデターで倒した。これもCIAの破壊工作部門が実行したのが、その黒幕はヘンリー・キッシンジャーだった。

 こうしたこともあって国の内外でCIAの秘密工作に対する批判が高まり、1975年1月にはネルソン・ロックフェラー副大統領を委員長とする特別委員会が発足。一方、上院では「情報活動に関する政府工作を調査する特別委員会」が、下院では「情報特別委員会」が相次いで設置された。委員長は上院がフランク・チャーチ、下院がルシアン・ネッツィ(後にオーティス・パイクへ変更)だ。

 ネルソン・ロックフェラーは秘密工作を指揮する立場にあった人物で、そのロックフェラー委員会の目的は事実の隠蔽だったはずだが、チャーチ委員会やパイク委員会は本当にCIAを追及する。

 それに対し、好戦派は黙ってはいなかった。1974年から77年にかけての大統領はジェラルド・フォードだが、この政権ではデタント派が粛清されて好戦派が台頭、その中にはネオコンも含まれていた。ドナルド・ラムズフェルド、リチャード・チェイニー、ポール・ウォルフォウィッツらもこの政権で頭角を現した。この時期のCIA長官はジョージ・H・W・ブッシュである。

 その後、好戦派は軍や情報機関の「民営化」を推進、CIAが行っていた活動資金の供給をNEDが行うようになる。こうしたことは有名な話で、NEDの国内における活動を許したならアメリカや地元の巨大資本とCIAを結びつける核になり、私的権力から自立した国を築くことはきわめて困難、不可能と言っても良いだろう。





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最終更新日  2016.05.19 14:05:17



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