第八話 青年インカ(1)【 第八話 青年インカ(1) 】 ペルー副王領の獄中で、トゥパク・アマルらに対する非道な拷問が行われていた頃、隣国ラ・プラタ副王領のソラータではアンドレスが、そして、同副王領ラ・パスではアパサが、いよいよ激しい死闘を展開していた。 ペルー側へ戻らず当地へ残ることを決断した時点で、トゥパク・アマルの命を見捨てたも同じと、身を切る自責と心痛に苛(さいな)まれながらも、アンドレスは、今でも一筋の希望を捨ててはいなかった。 ――トゥパク・アマル様が存命中に、何としても当地での勢力を確実なものとし、ペルーでの勢力も盛り返し、トゥパク・アマル様たちの処刑など絶対に実行させはしない!!―― そんなアンドレスが指揮するソラータ包囲作戦は、暫く前から順調に推移しており、この頃には、彼の元にある2万の軍勢は、スワレス大佐率いる強靭なスペイン軍を圧倒し、悲願のソラータ完全包囲に成功するに至っていた。 とはいえ、スワレス指揮下の頑健なスペイン軍は、そもそも容易に降伏するような面々ではなく、完全包囲された今となっては、彼らはいよいよソラータの町中に深く立て篭もり、戦況は本格的な「籠城戦」のごとくの様相を呈していた。 そのような状況下にあるアンドレスの心境は、ますます逼迫(ひっぱく)した状態に追い込まれていた。 (こんな時に、本当なら、敵の籠城戦などに付き合っている時間なんて、少しも無いのだ! トゥパク・アマル様の処刑だって、そう遠くはないはずだ…! もう、全く時間が無いのに…――!!) ちなみに、このソラータ戦でスペイン軍の指揮を執るスワレス大佐は、当地ラ・プラタ副王領のスペイン軍総指揮官フロレス直下の部下であり、武芸については申し分無い豪腕であった。 だが、一方で、あの公明正大なフロレスとは性格がかなり異なり、勝つためには手段を選ばぬという、いかにも当時のスペイン軍人らしい気質を備えた厄介な相手でもあった。 しかも、アンドレスによって包囲網に封じられたスワレスは、自軍をソラータの街中に「籠城」させるにあたって、当地の一般人たち――インカ族の者たちや、当地生まれのスペイン人などの非戦闘員――の町からの脱出を阻み、人質として彼らをスペイン軍と共に強引に立て篭もらせていた。 そのことは、アンドレスの頭を深く悩ませていた。 このまま敵の立て篭もりが長引けば、軍人以外の庶民たちもが、食糧の欠乏によって過酷な飢えに苛まれることになるであろう。 (トゥパク・アマル様のお命の期限が、刻一刻と迫っているのに……! こんな時に、今、多くの民が、ソラータの街中で飢えに苦しみはじめているのだ。 俺の攻め方は、失敗だったのか…? ああ…そうだったのだ…手はずが足りなかったのだ!! …なら、一体、どうしたらいい? トゥパク・アマル様…――! このような時、トゥパク様――あなた様だったら、どうされるのか…?!) 己の中で虚しくこだまするばかりで、今は応えの無いトゥパク・アマルに、それでも、アンドレスは心の中で問いかけずにはいられない。 しかし、深く苦悩しながらも、それでも、アンドレスは決して投げ出しはしなかった。 投げ出したら全ては終わってしまう…インカの運命さえも、完全に尽きてしまう!!…――この期に及んでは、もはや極端とも言えぬその一念が、今にも崩れそうになる己自身を懸命に奮い立たせていた。 とはいえ、殆ど、寝る間も、食事をする間も惜しみ、事態の収拾方法を模索して奔走するアンドレスの表情は、ますます焦りと苦悶に歪み、鬼気迫るものとなっていく。 そんな彼を、かつてトゥパク・アマルの知恵袋でもあった老練のベルムデスは、深く案じる眼差しで見守っていた。 深夜、兎も角も、その日の全ての任務を終えて、しかしながら、全く落ち着かぬ心境のままに、アンドレスは一人、己の天幕近くに凛と佇む大木の前に立った。 もう最近では、それは、殆ど毎晩の日課のごとくになっていた。 彼の前にあるのは、かつて、トゥパク・アマルの声が聞こえた気がした…――いや、確かに、あれはトゥパク・アマル自身の声だった、と、今も確信している――あの大木であった。 秋の深まりと共に、アンデス高地の空は清涼な冷気に満たされて澄み渡り、そのさまは、見上げる者を、身も心も無条件に呑み込んでしまいそうなほどである。 その圧倒的な引力に引かれるままに、ただ自然の流れにその身をあずけ、まるでそれを喜びとしているかのごとくに、遥かな天頂射して、大木はどこまでも高く、遠く、そして、ますます厳かに聳(そび)え立つ。 天空から無数に降り注ぐ巨大な流星たちを背景に大木が放つ、その堂々たる存在感は、アンドレスにとって、まさしく、トゥパク・アマルの気配そのままである。 「トゥパク・アマル様…!!」 生粋のインカ族ともスペイン人とも異なる、精悍でありながらも柔らかな混血児らしい造形の横顔で、今は相当に険しくなった、それでも、彫像のように精巧で美麗な目元が、苦渋に歪む。 (今、ソラータの街は完全に食糧が尽きていると聞く…!! なのに、敵は、何の動きも見せようとはしない。 こんな状態で、ただ敵の降伏を待っていたら、住民たちは本当に死に絶えてしまう!!) アンドレスは、地に吸い込まれるように、大木の真下に膝をついた。 (ああ…!! 本当に、一体、どうしたらいいんだ……!!) 大木の前に蹲(うずくま)り、太い幹にもたれるようにして頭を抱え込んでいるアンドレスの傍に、ベルムデスがそっと近づいた。 ベルムデスにとっても、その内心に渦巻く苦悩のさまはアンドレスと変わらず深く、その上、目の前で苦悶に喘ぐアンドレスの姿は、もはや見るに耐え難い。 「アンドレス様」 背後から不意に己の名を呼ばれ、アンドレスは、はじかれたように顔を上げた。 振り返るアンドレスの目に、包み込むような温厚な笑みを、静かに湛えたベルムデスの姿が映る。 「ベルムデス殿…!!」 アンドレスは大木の下から、慌てて立ち上がった。 既に己の苦悶の様子を見られてしまったことの決まり悪さから、彼は思わず視線を泳がせる。 そんなアンドレスに、ベルムデスは、深い慈しみの眼差しのままに、微笑んだ。 それから、すっと天を振り仰ぐ。 「今宵の夜空は、格別に美しいですな」 ベルムデスの穏やかな声に、アンドレスも、つられるように空を振り仰いだ。 夜の深まりと共に、先刻にも増して、いっそう多くの流星たちが天空に光の尾を引いて舞い降り、霊峰に吸い込まれるように消えていく。 空近いこのアンデスの地では、流星も、まるで手に取れるかと思われるほどに、至近距離まで迫り来る。 しかも、その数も、1分間に軽く10個は数えられるほどに、とても多い。 まるで宇宙空間の中にいるかのようだ。 それら流れる星々の光を目元に反射させながら、じっと空を見つめるアンドレスの横顔に、ベルムデスは再び微笑みかけた。 「アンドレス様は、好いておられる姫君はおられるのですかな?」 「!…――えっ?!」 あまりに唐突な問いかけに、アンドレスは咄嗟にベルムデスの顔に振り向いて、ただでさえ大きな漆黒の瞳を、いっそう大きく見開いた。 「いや…アンドレス様、そんなに…」と、ベルムデスは可笑しそうに笑って、「驚かせるようなことを聞きましたかな?」と、茶目っ気のある口調で言う。 「アンドレス様のお年頃ならば、普通のことです。 むしろ、どなたにもご関心が無いなどと言われたら、このジイは、心配になってしまいますぞ」 「…――!」 言葉を継げずに己の方を凝視したまま、明らかに頬を上気させているアンドレスに、ベルムデスは微笑ましげに目を細めた。 そして、再び、天頂を振り仰ぐ。 また、つられるように、アンドレスも空を見た。 流星以外の星々とて、いずれも手を伸ばせば届くほどに間近に輝く。 そんな純白の星々を見つめる彼の胸の内では、大切な人への愛おしさと切なさとが、とめどなく溢れだす。 トゥパク・アマルの捕縛を知らされて以来、まるで堅く蓋をするかのように心の奥に押し込め、見ないようにしてきた気持ちだけに、一旦、箍(たが)がはずれると、それは、とどまるところを知らぬ勢いで溢れ続けた。 (コイユール…――!!) 上空を見据えるアンドレスの目元に微かに光るものの滲むのを、しかし、ベルムデスは見ぬ素振りで、幾筋も流れゆく流星の軌跡を追いながら、ただ、黙って傍に居た。 暫し時が流れた頃、アンドレスが、空を見つめたままポツリと問う。 「あの…ベルムデス殿、ご存知でしょうか? トゥパク・アマル様の本隊にいた負傷兵たちは、どうなったか…」 「え? 負傷兵、でございますか?」 「あ…その…負傷兵の皆とか、その周りの者たちとか……」 「負傷兵や、周りの者?…ですか」 予想外の質問に、ベルムデスは、一瞬、目を瞬かせながらアンドレスの横顔を振り向いたが、すぐに上空に視線を戻して穏やかな声で言う。 「トゥパク・アマル様の元にいた本隊の負傷兵たちは、ビルカパサ殿の連隊から分遣隊を編制し、ビルカパサ殿の精鋭の兵たち、それから、マルセラ殿が率いる軍勢に庇護されながら、当地に向かっておるはずです。 周りの者とは、従軍医や、看護の義勇兵たちですかな? その者たちならば、負傷兵を看病しながら、共に当地に向かっているはずです」 アンドレスは喰い入るように、ベルムデスを凝視した。 「マルセラの連隊が…! 当地に向かっているのですか!! それで、その部隊は、まだ無事なのでしょうか?!」 いつしか身を乗り出して己の方に真正面から向き直り、ひどく真剣な眼差しで迫るように問うてくるアンドレスに、ベルムデスは、時折、皺のよった目元を瞬かせながらも、静かに応じる。 「アンドレス様…この時勢では、それぞれに分かれて行動している部隊の行動は掴みにくく、正確なところは分かりかねるのです」 アンドレスは、険しい眼差しで固唾を呑む。 そんな彼に、ベルムデスは宥(なだ)めるように続けた。 「ですが、別段、悪い噂も聞いてはおりませぬ。 アンドレス様、どうか、あまりご案じ召されますな。 きっと、皆、今頃、この同じ夜空を見上げておることでありましょう。 今宵は、一際、星々が美しいですからな」 ベルムデスの言葉に、アンドレスも、再び天空を振り仰いだ。 それら星たちを映し出す彼の澄んだ漆黒の瞳は、大きく揺れ続ける。 (あのコイユールのことだ…負傷兵たちの傍で、今も、懸命に頑張っているに違いない。 俺たちは約束したんだ…――必ず、また生きて会うって……! それに、当地に向かっているって?! ならば、信じて待とう…! そして、俺も、今すべきことを、精一杯に、やり抜くんだ…!!) アンドレスは、ついに、こらえきれずに溢れ出した涙を、慌てて、手の甲で拭った。 だが、涙しながらも、その横顔に若者らしい鋭気と力強い光が甦るのを、そっとうかがいながら、ベルムデスは瞳で頷き、その目を細めた。 やがて、アンドレスの思考が、目前の現実的な問題に戻っていくのを、その表情から見届けると、ベルムデスは変らぬ穏やかな声で語りかける。 「アンドレス様。 先ほどは、ソラータの住人たちのことを、案じておられたのですな?」 アンドレスは素直に頷き、応える。 「はい。 完全に食糧が欠乏しているにもかかわらず、敵は降伏をしてくる気配も無く…。 その傍らで、住人たちは、今にも飢え死のうとしているのです」 アンドレスの声に再び苦渋が滲むのを聴き取りながら、ベルムデスは続ける。 「アンドレス様、お一人でお苦しみなさいますな。 この老いぼれ、インカのため、そして、アンドレス様の御為であれば、どれほど干上がった脳でも、最後の一滴までをもお絞りいたしましょうぞ」 「ベルムデス殿……!」 ベルムデスは深く頷き、沈着な、そして、深遠な声音で言う。 「アンドレス様、もしや、そろそろ潮時かもしれませぬ。 当初から、敵は、この状況を狙っていたはずです。 そして、住民たちを見捨てられぬアンドレス様が、いずれは包囲網を解くであろうと…」 ハッとアンドレスは瞳を見開く。 そして、驚きを隠せぬ声を上げた。 「え?! ベルムデス殿…潮時とは?! では、そろそろ包囲網を解く時であると?!」 「いいえ、アンドレス様」 ベルムデスは、ゆっくり首を振る。 「包囲網を解いては、敵の思う壺です。 そうではなく、アンドレス様の方から、敵に休戦を申し入れてはいかがでしょうか?」 「休戦を?!」 いっそう驚いたように声を上げるアンドレスに、あくまで老賢なベルムデスは「はい」と落ち着いた微笑みを絶やさない。 「包囲網を敷いたまま、しかし、一時休戦ということにして、敵に食糧などの必要な物資を補給するのです。 もちろん、その機に、住民たちにこそ十分な食糧を! そして、敵方と和議の話し合いを持たれてはいかがでしょうか?」 「えっ、和議を?! こちらから申し入れて、ですか?!」 ますます驚愕の表情のアンドレスに、ベルムデスは変わらぬ微笑みを湛えたままに、だが、その皺の寄った目元に真剣な光を宿して続ける。 「はい、アンドレス様。 確かに、このまま包囲網を張り続ければ、住民の犠牲は伴えども、いずれ敵は飢えて死に、ソラータはあなた様の手に落ちましょう。 それは、あなた様の大きな戦果ともなりましょう。 ですが、此度の真の目的は、敵を殲滅(せんめつ)させることではありますまい。 もちろん、敵を倒せればそれに越したことはありますまいが、そんなふうに全てを成し遂げられずとも、このソラータの地を、我がインカの元に奪還することさえ出来れば良いのです。 この地が、この後の戦(いくさ)の拠点となればそれで良いのです。 あの者たちのこと、無条件降伏など、決して有り得ぬこと。 それを待っていては、住民たちの犠牲が増えるばかりか、無為な時ばかりが流れ、その果てには、住民たちや敵兵たちの屍(しかばね)の山が残るのみ。 それよりも、アンドレス様の方から、助け船を出されませ。 ソラータのスペイン側に和議を申し入れるのです。 即座の十分な食糧の補給とソラータに立て篭もっているスペイン兵たちを安全に当地から立ち退かせることを条件に、ソラータはすぐにも明け渡すようにと、あのスワレス大佐と話し合いをされるがよろしいかと。 完全に食糧の尽きている今、命の保証と逃げ道を与えれば、あの者どもとて、その機会を無碍(むげ)にはせぬはずです。 折れて、そして、最終的に、何としても譲れぬものだけを、しかとその御手に。 アンドレス様、あなた様にとりましても、インカにとりましても、それこそが真の勝利へ続く道となりましょう」 アンドレスは非常に思慮深い眼差しで、この老練のベルムデスの言葉に深い敬意を払いつつ聴き入り、「なるほど」と、素直に頷き返す。 しかし、一方で、まだ顔を曇らせたまま言う。 「だけど、あの者たちが、話し合いなどに応ずるだろうか……」 「もはやソラータの街は完全に食糧が尽き、住民たちはラバや犬、猫、鼠ばかりか靴の踵(かかと)まで食べていると聞いております。 敵兵たちが住民たちから食糧を奪っていたとしても、さすがに、それも尽きた頃…。 食糧の欠乏とは、想像を絶する過酷なものです。 今なら、いかに強情な敵と言えども、聞く耳は持つはず。 アンドレス様、住民たちのためにも、一刻を争います。 ご決断をなされませ」 そう語るベルムデスの表情は、今、鋭いほどに真剣になっている。 「ラバや犬、猫、鼠…そんな…靴の踵まで…?!」 アンドレスは衝撃の眼で蒼白になり、その手で思わず己の胸元を強く押さえ込んだ。 同様に苦渋の表情で頷くベルムデスの視界の中で、アンドレスは精神統一をするかのように瞼を閉じ、深い思考の状態に入っていく。 引き締った彼の片腕は、まるで大木から何かの力を受け取ろうとするかのごとくに、しっかりと、その太く逞しい幹に添えられていた。 固く閉じられた瞼が、時々、痙攣するように微動する。 そのまま数十分の時が流れた。 深い瞑想状態に入ってしまったがごとくのアンドレスの様子を、傍らに立つベルムデスは、黙って静かに見守っている。 濡れたような白い月光に照らし出されたアンドレスの横顔は、次第に澄みゆき、迷いの色が遠のいていく。 やがて目を開けた彼は、ベルムデスを真っ直ぐに見つめ、そして、深く頷いた。 「明朝の軍議にかけて最終的な結論を出すことになりますが、俺の気持ちは固まりました。 ベルムデス殿、あなたの進言通り、明日にでも早々にスワレス大佐に和議を申し入れる方向に、今後の方針を定めて参ります」 力を宿した表情で語るアンドレスと、そして、そんな彼に微笑みながら頷き返すベルムデスを、大きく包み込むように、秋にも関わらず無数の葉を抱いた大木の枝々が、厳かに、悠然と、深夜の風に揺れていた。 かくして、翌朝、ベルムデスの進言は、すぐにも軍議にかけられた。 軍団の将アンドレス自身の決を既に見ていたこともあり、また、実際、他の妙案があるわけでもなく、ベルムデスの進言は、そのままの通りに承認を得た。 さて、いざや和議を進める運びともなれば、「籠城」に巻き込まれたソラータの住民たちを、その過酷な飢餓状態から一刻も早く解放したいアンドレスは、速攻、使者を当地のスペイン軍総指揮官スワレス大佐の元に飛ばした。 そして、ベルムデスの予測していた通り、完全に飢えに陥っていたスワレスはじめスペイン側の兵たちは、アンドレスの提案に前向きな姿勢を示した。 ソラータからの即時撤退については即答を避けながらも、話し合いには応じる意向を示し、兎も角も、食糧の補給をすぐにもしてくれと、さすがに切実な様相で求めてきた。 アンドレスはそれを承諾し、すぐさま、立て篭もり中の敵軍、及び、ソラータの住民たちに、十分な食糧の補給を開始した。 敵側も、この期に至っては、アンドレスの要請を無視することはできず、敵将スワレスが、直接、和議の話し合いに応じると返答してきた。 しかしながら、和議の話し合いに応じる条件としてスペイン側が出してきたのは、その会合の場をソラータの街中に定める、というものだった。 もちろん、敵も、此度の会合の場での身の安全は保障する、と言い添えてはいたが。 だが、スペイン側の、インカ側に対する裏切り行為を、王家に仕えてからの半世紀に渡って散々に見尽くしてきたベルムデスは、さすがに、そのような申し出であれば話は違う、決して乗ってはいけないと激しく反対したのは言うまでもなく、他のインカ兵たちも強い難色を示した。 一方、アンドレスとて、リスクの大きさに無頓着ではなかったが、あくまで敵陣付近での会合を強硬に要求する敵方と揉めている時間さえ彼には惜しかった。 加えて、前々から、アンドレスの中には、ソラータの街の実態を己の目で確かめておかねばならぬ、という気持ちもあった。 敵陣に乗り込む決意を示すアンドレスに、ベルムデスは、もはや、縋(すが)るようにして引き止める。 ベルムデスから見れば、この状況下で敵陣にくだるアンドレスの行為は、全くもって、自ら死にに行く自殺行為にも等しく映ったのだった。 だが、敵が絶対に折れぬ姿勢を貫く以上、こちらが妥協せねば、膠着(こうちゃく)していた戦況がせっかく動き出した今の流れを堰(せ)き止めてしまうことになる。 話し合いの機会そのものを反故(ほご)にするのか、要求に応じて相手の土俵に乗り込むのか、そのどちらかしか道は無い。 しかし、ベルムデスは、普段の、あの温厚な表情さえも影を潜めた険しい面持ちになって、アンドレスの前に立ちはだかるようにして引き止める。 「アンドレス様、此度の和議の一件、どうかお諦(あきら)めくださいませ。 わたしから言い出しておきながら、誠に恐縮ではありますが、このままソラータの街中に入られるのは、あまりに危険でございます。 どうか、アンドレス様…! あなた様が纏う御身の、インカにとっての重要なることを、今こそ御心にお留めくださいませ」 他方、アンドレスは真摯な眼差しでベルムデスの両肩をガッシリと支え、首を横に振る。 「ベルムデス殿、あなたが仰られた通り、敵が決して自ら降伏してこぬ以上、彼らが籠城を完遂して果てるまで待つ時間は、我々にはありません。 トゥパク・アマル様の処刑は、このままでは、決して遠くはないはずです。 今は、一秒たりとも、俺は惜しい。 一刻もはやく当地を奪還し、再び、インカ軍の勢いを盛り返さねば!! それに、こうして、我らがここに包囲網を敷き続けている以上、仮に、ソラータに入った先で、スペイン側が俺を捕えたり、殺したりしようものなら、ここにいるインカ軍が黙ってはいないことぐらい敵も充分に予測しているはずです。 彼らは、今度、俺たちを本気で怒らせれば、次こそは、完全に食糧の補給を絶たれ、弱りきったところを攻め込まれて全滅させられかねぬことも、重々分かっているはずです。 彼らだって、みすみす再び逃げ場を失い、自らの首を絞めるような真似を、そう安易には行いますまい?」 思慮深い眼差しで語るアンドレスに、しかしながら、ベルムデスの厳然たる険しい形相は変わらない。 (なりません…! アンドレス様は、まだ、あの白人たちの、本当の恐ろしさを分かってはおられない……!) ベルムデスは眉間(みけん)に深い皺を寄せて、アンドレスの瞳の奥を見据える。 (アンドレス様…! 和議の話し合いなどと建前に偽って、逆に、あなた様を人質にとり、我らに無条件降伏を迫ってくるなど、あの白人たちには朝飯前のことなのです。 いや、それだけではない。 「人質」にしたなどと言って、その命と引き換えに条件を呑ませておきながら、実際には、その人質は、早々に虐殺されていた、など、あの者どもの、あまりにも使い古された常套手段なのです…!) そんなベルムデスの噛み含めるような心の声を聴き取りながら、アンドレスは、その老賢者の肩を支える腕に力を込めて、深く頷いた。 「ベルムデス殿、俺だって、みすみす囚われ殺されに行くのだと思えば、こんな話には乗りません。 ですが、今の俺には、あのトゥパク・アマル様が常に共に居て、しかと守ってくださっている気がしてならないのです。 だから、此度も…――無謀と思われるかも知れませんが…俺は、ここに、必ず生きて戻ってくるという直観…――いや、確信があるのです。 ですが、万一にも、もし…もし俺が人質にとられるようなことがあれば、どうか躊躇せず、俺のことはお見捨てください。 そして……」 ベルムデスが息を呑んで目を見開く間にも、アンドレスは声を低めて、真正面から真っ直ぐにベルムデスを見つめたままに続ける。 「もし、俺に万一のことがあれば、どうか、マリアノ様のことを、くれぐれもよろしくお願いいたします」 「アンドレス様…!!」 もはやアンドレスの決意の固く変らぬことを悟ったベルムデスは、これまでに見せたことの無いほどに深刻な眼になって、アンドレスの漆黒の目の奥の奥まで貫くように見据えた。 「いいえ、アンドレス様。 必ず、生きてお戻りなされませ!!」 アンドレスは、力強い笑顔で頷いた。 「はい。 必ず――!!」 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第八話 青年インカ(2)をご覧ください。◆◇◆ |