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はじめてものを思ふ

和泉式部が、恋人だった為尊(ためたか)親王に死なれて一年ほど経ち、その弟の敦道(あつみち)親王に言い寄られ、しばしのやり取りのあと彼を受け入れてしまったその翌日、いわゆる後朝(きぬぎぬ)の歌を贈られる、(a)「恋と言へば世の常のとや思ふらん今朝の心はたぐひだになし」、それに式部が返した歌は、(b)「世の常のことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは」。(確認はしていないが、「思ふあしたは」は、式部集では「思ふ身なれば」だそうだ。)

三石由紀子の現代語訳(注1)はそれぞれ、
(a) 恋だと言ってもあなたは世の常のことだとお思いになるのでしょうが、今朝の私の心は比べるものもありません、
(b) 世の常のこととは思えません。初めて契った方を恋する朝の心は。

式部のこの返歌(b)で僕が不可解に思うのは、「はじめてものを思ふ」という部分、初めて男と関係を持ったわけではないし、はじめて恋に悩んだわけでもない式部が、どういう意味でこれを書いたのか。その答えを出すために、この返歌に続く「和泉式部日記」の文、式部の独白であるが、「あやしかりける身のありさまかな、故宮の、さばかりのたまはせしものを、と悲しくて思ひ乱るるほどに」の部分と返歌の解釈をいくつかの文献から拾ってみた。

まず岩波古典文學大系(注2)、「今まで故宮を追慕してきた身が、今は同じ血をわけた弟宮と関係して、複雑な物思いにかられる身となったからであろう。はじめてが、生々しい印象を与える」。 --これでは何もわからない、生々しい印象とはなんのことだ。

小学館日本古典文学全集(注3)、「世間並みのありふれた恋とは少しも思われません。今朝はじめて恋の切なさを知った私なのですから、と申し上げるにつけても、思いがけず奇妙なことになったわが身の運命よ、亡くなった兄宮様があれほど深く愛してくださったのに、と悲しく、思い乱れている・・・。宮への恋心がわいたことを示すとともに、今まではほかの男との恋など経験したことがないことを宮に反論している。」 --ほかの男と恋など経験したことがない、という反論は通じないでしょう、敦道は、式部が兄の恋人だったことを承知でアプローチしてきたのだから。

新潮日本古典集成(注4)、「おっしゃるように、これは世間一般にざらにあることとは思えません。そのせいか、きぬぎぬの朝こんな物思いに沈んだのは、はじめてという朝になりました。・・・女の方は、意外な事の進展を嘆いているのである。」 --「意外な事の進展」とはあいまいな言い方だが、要は、兄宮のことを忘れられるほど弟宮に惹かれてしまったということなのか。

竹内寛子はこう読む(注5)、「<はじめてものを思ふ身なれば>は特異である。式部は<はじめてものを思ふ>ような経験の浅い女ではなかった。通り一遍の読み方をすれば、<どんな噂を耳にしているか知らないが、これが私の初めての恋だ>と、今までの恋愛経験を否定したことになり、その場限りの魅力のない女になる。私はこの<はじめてものを思ふ身なれば>は、決してそのような過去を繕った歌ではないと思う。これは、式部自身が、この朝の新鮮な感覚に驚いているのである。したたかさではなく、初々しさを感じる歌である。橘の花をそっと言付けた弟宮には、期待と不安があった。それが今、裏切られなかったという実感がある。満足感を覚えながら、さらに女の持続的な期待をそそられる歌である。」 --なるほど、一女性の目から見ればこうなるのか。この読みは比較的説得力がある。

英訳も見てみた(注6)、「For the first time my heart is filled with many thoughts. But even as she wrote, her mind was a tangle of sad and conflicting emotions. What an incomprehensible person she was! After all the tender vows the late Prince had made.」 --「あやし」という形容詞の解釈が、悲しみも入り混じった矛盾葛藤する感情のもつれ、と捉えられている。

「あやし」という言葉の基本になっている感覚は、普通でない事物、正体のはっきりしない事物に対する不可解な気持ち(大辞泉)なので、「あやしかりける身のありさまかな」は、おそらく自分の心身の状態を不可解なものとして驚いている、あきれている、のだろう。そこには、もちろん故人への恋慕と失ったことの悲しみがあり、と同時に、新しい人から受けた心身の感動の火照りがあるに違いなく、そんな自分を半分責めているようだ。してみると、「はじめて」は「生々しい」と岩波本(注2)が暗示したように、あるいは「意外な事の進展」と新潮本(注4)が曖昧に表現したように、そして竹内(注5)が敷衍したように(ただし、初々しいと、僕は思わないが)、今までになかったような心身の感動、と解釈するのが妥当のように思う。

注1 三石由紀子「和泉式部 日記とその歌」源光社、Kindle版、2014年6月

注2 鈴木知太郎他「土佐日記、かげらふ日記、和泉式部日記、更級日記」日本古典文學体系20巻所収、昭和32年12月、岩波書店、「和泉式部日記」は遠藤嘉基校注。

注3 藤岡忠美他「和泉式部日記、紫式部日記、更級日記、讃岐典侍日記」日本古典文学全集18巻、昭和46年6月、小学館。なお、校注の藤岡忠美は、昭和51年ごろの論文で、和泉式部と為尊親王の恋愛は「和泉式部日記」の虚構ではないかという説を提案した。その根拠の一つとしては、式部の家集に、弟宮挽歌はあるが兄宮の挽歌はない、という点だそうだ。

注4 野村精一「和泉式部日記、和泉式部集」新潮日本古典集成、第42回、昭和56年2月、新潮社。

注5 注1に引用。

注6 Edwin A. Cranston, The Izumi Shikibu Diary, 1969 Harvard University Press.

(2016.7.12)


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