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もののあわれ(4)まとめ

現代の日本人の多くが抱いている「もののあわれ」は、「人間の儚さや、悠久の自然の中で移ろいゆくものに美を発見してしまう感性」(藤原正彦「国家の品格」、p.101)、といった感じだと思いますが、これは、本居宣長が考えた「もののあわれ」ではありません。いつ頃どのようにしてかは知りませんが、言葉の意味が徐々に変化してきたようです。この変化には近代日本人の選好が深く関わっているのかも知れません。

宣長の意味した「あわれ」は深く心に感ずることで、単なる「哀れみ」とは違います。心のアンテナを伸ばして外界の信号を捉え、その意味を感じること、それが「もののあわれを知る心」です。人と人の関係の場合、相手の状況や感情に共鳴する、これはもののあわれを知る心です。に比べて、沈む夕日や散る桜に人間の儚さを感じることは宣長のいうもののあわれを感じる心ではないでしょう。恋心を抱いて感傷的にこういう和歌を詠っている人、その人に対して共感する、となるともののあわれを知る心です。共感がキーで自己憐憫とは違います。つまり、多くのひとが理解している「もののあわれ」は、いささか短絡した感傷的な概念になってしまっていて、宣長の意味したものではありません。「無常感」や「虚無感」とも混同しているようです。

宣長がどうして「もののあわれを感じる心」という感情重視の考え方を前面に押し出したのか。これは前回紹介した丸山眞男の講義録にはたっぷりと展開されていますが、ここでは他の論文も読み合わせて、特に重要と思われる点を列挙します。

背景にあるのは、元禄・享保年間[1688年-1736年]に商業経済が成熟してきたことです。人々の増殖する欲望が既存の仏教や儒教の規範では捉えられなくなってきた、規範からはみ出してきた、それを正当化する思想が必要になってきた、そこで規範よりも感情を重視する考え方が出てきたと思われます。これが、一方で朱子学批判という形で表れ(仁斎など)、他方で、元禄以降の文学では情を中心に据えるようになってきました。宣長はこの流れの中で登場したわけです。

朱子学批判の深層には、中国王朝の不安定さに対する不信感もあったでしょうし、国家意識の芽生えもあったでしょう。朱子学の生れた宋は、モンゴル系の元に滅ぼされ、その元を覆した明は、やがて満州系の清に取って代わられる、そのたびに社会は乱れ多くの人が死ぬ、それが朱子学の言う「理」なのか、そんなはずはない、これに対してわが日本は万世一系の天皇の治める皇国である、こちらが優っているのは揺るぎない事実である、という意識があったはずです。

伊藤仁斎の項で触れたように、朱子学批判によって、人間は内面の「理」という規範から解放されたと言えます。漢意(からごころ)からの影響を捨てて古き良き日本の自然感情に帰れ、それが歌の道でもあり社会を治める理念でもある、と宣長は主張したんだと思います。

最後に一つ感じたことを。同時代の西欧ではすでに<主体の自由>を前面に押し出す思想が主流をなしていたのに(例えばカント、1724年-1804年)、(いままで読んだ限りでは)宣長はもちろんのこと日本の近世の思想には<主体の自由>とか<独立した主体>という概念が見られないことです。「もののあわれを感じる心」は主体内に存在するはずですが、それが独立したものと見做されていない。なんだか心はただの器、入れもののように漠然とそこにある、そこには古代から連綿と流れる真心というものがある、という考え方のようです。農工商階級の思想はまだ芽生えたばかりで、権力に対抗する自分たちという発想が持てなかった、ということなんでしょうか。


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