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クリームな日々

クリームな日々

2011,6/15定義集 大江健三郎 

〈責任の取り方を見定める〉
沖縄の抵抗から学ぶ私たち

このところ籠もりきりだと知っている編集者の旧友が、写真撮影を口実に都心へ呼び出し、それが終わると、赤坂のパリ風カフェに連れて行ってくれました。
気後れしている老人に、国籍不明なほど若々しい身なりの老人が歩み寄って、力強く、ー裁判、おめでとう!
 私は跳び立つと、サングラスにジャンパーの相手の肩口を?みました。
健康の不調をいわれていながら、ニューヨークで圧倒的な復活をとげた小澤征爾。
 この欄に私は、健康上の理由でサイトウ・キネン・オーケストラの指揮を短くした彼が、テレビの撮影を許可した練習風景の、人間的な深さに打たれたことを書きました。そして年末には、ブラームスの交響曲1番に感嘆したのですが、あの日の録音のCDの、悲劇的に荘重な写真に、野球帽とジーンズを重ねてください。


 立ったまま小澤さんが話し始めたのは、3・11以後この国のテレビCMをみたしている社会的な気分の表現に、方向付けを感じないか、ということです。
 おれたち戦中の子供がよく聞いた、ヨクサンという言葉があっただろう?〈大政翼賛会の。辞書で引くなら「力をそえて、天子などをたすけること」だが、と私は若い人たちに注釈しました。自発的な協力態勢のようでいて、仕掛け人がいる)そう、「ガンバレニッポン」「日本は大丈夫」

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五月のはじめ、私は第五福竜丸展示館の、風格のある木造船で、やはりこの欄に書いた、ビキニ環礁水爆実験の「死の灰」をあびた大石又七さんと対話しました。
 NHKテレビで放映されますが、終わりがたに大石さんは、
「責任をとることをどう考えるか」と問われたのです。
それは、福島原発のいまも続いている大事故につながっています。
私が答えながら自分の考え方の土台にした、二つをここに書きます。
 
 第一は、大石さんの著書から年譜的に読みとったこと。
55年1月、ビキニ事件日米合意文書調印。
5月、第五福竜丸乗組員22名退院。(死なれた久保山さんを除く)。
11月、大石さん、漁師を断念して上京。
12月、原子力基本法、原子力委員会設置法各公布(原子力平和利用の始まりです)。
 57年4月、原爆医療法施行(しかしビキニ被爆者は外される)。
7月、国際原子力機関(IAEA)発足。
60年1月、日米新安保条約調印。
61年10月、ソ連58メガトン水爆実験。
62年10月、キューバ危機。
63年8月、米英ソ「部分的核実験停止条約」調印。
64年10月、中国原爆実験。
65年5月、日本初の商業原発、東海第1号炉臨界。
67年3月、はやぶさ丸となっていた第五福竜丸廃船、夢の島に放置。
6月、中国水爆実験。
12月、佐藤首相、非核三原則表明。

ここに見られるのは、ビキニ事件を端緒に(放射能雨が国民的経験となりました)、実に短い期間で核実験反対の世論が原水爆禁止運動を盛り上がらせたが、同時に、日本はアメリカから原子炉、濃縮ウランを導入して、原発を作るに至った経過です。

 大石さんの、連関を見渡した上での問いかけは、86年4月、チェルノブイリの事故があり、いまそれと規模をひとしくする福島原発の事故が起こって、国内の出来事にとどまらず、世界的な放射性物質による影響を(この現在も)もたらしているが、その巨大な犠牲に誰が責任を取りうるか、です。
自分の経験からいうなら、誰も責任は取らないのではないか?
 私の第二の引用は、右の時代を政治家として先導した中曽根康弘氏のインタビュー。
 《戦後日本の最大の問題はエネルギーだった。(中略)敗戦から立ち直り、独り立ちするには、エネルギーをどう確保するかが大命題だった。着目したのが原子力だ。科学技術の推進と二本立てでいけると考えた。》

 《大変な被害を受けたけれども、今度の事故にかんがみて、良くそれを点検し、これを教訓として、原発政策は持続し、推進しなければならない。(中略)それが今日の日本民族の生命力だ。世界の大勢は、原子力の平和利用、エネルギー利用を否定していない。》

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 遠い話じゃない、再びフクシマが起きても、きみたちは、日本民族の生命力は不滅というのか?
 ベルリンの新聞記者からは、そう問いかけられました。
ヒロシマの過去、オキナワの現状について、政府が「忍従せよ」と言うのだと、きみは批判したが、あの言い方はいまも生きているか?
 沖縄県民の大集会、辺野古での抵抗の持続を知っているだろう、と私は答えました。今は本土の私らがそれに学ぶ。


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