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ヘンデルの音楽が持つ偉大な特質を語るときに、私は「共有性」という言葉を用いることにしています。「普遍性」というのに近いようですが、その音楽の感動は受け取る人を選ばない、といったぐらいの意味です。
事実、「ハレルヤ」を聴いて立ち上がった国王と、慈善演奏に招かれた養育院の孤児たちが受けた感動に違いがあったはずはありません。身分の違い、国境の壁、3世紀に近い時間を越え、現代の「クラシック」マニアの心にも、初心者の耳にも、果てははるか東洋の島国の、モーツァルトやベートーヴェンなら5分ともたないというアンチクラシックのツワモノの感覚にさえスムーズに入り込むことができる音楽なのです。 誤解を恐れぬ言い方をするなら、現代の音楽界は、民衆に背をむけ、一部の理解者だけを相手に過去の遺産をくりかえし演奏することで自己を主張している「クラシック」界と、その遺産には目をむけず、ただひたすらヘンデル時代さながらの使い捨て消耗品をマスメディア等を通じて垂れ流しつづける「アンチクラシック」界から成り立っていて、普通ほとんどの人がただ「音楽」という時には、それは後者をさしている、といってよいでしょう。車の両輪はそろっているように見えて、実は2つの輪は共通の車軸でむすばれてはいません。 しかし、私は音楽の前途そのものは楽観視しています。現代の民衆の中から生まれた音楽の中にも、(3世紀もつかどうかは微妙でも)少なくとも何世代にもわたって親しまれつづけるであろう名曲の数々が存在することは疑いません。たとえば20世紀になって、ヘンデルの本拠地英国は、まさしくヘンデルの遺伝子を受け継ぐ直系ともいえる音楽家たちを生みました。ビートルズです。彼らのほかにも、ヒットを続けるミュージカルの古典や、ハリウッド映画のいくつかの音楽など、100年後の民衆が聴いても新鮮な価値を失わないだろうと思える優れた作品は少なくありません。 その一方、いわゆる「クラシック」音楽など一部の好事家だけのもの、という目で見ていた多くの人々の間に、この偉大な遺産に対する親近感といったものが近年急速に芽生えてきているのも事実です。私は「のだめ」は続けて読んでいませんが、最近ののだめフィーバーなどを見ていて、より幅広い層にこの遺産の価値を紹介し、いわば「クラシックアレルギー」を払拭してくれたその文化的意義は大変大きい、と感謝せざるを得ません。「のだめ」はひとつの例にすぎませんが、このような機会を繰り返しながら、未来の音楽は次第に「クラシック」の遺産を正しく継承していくだろうと信じています。 いまは断絶している車の両輪は、いつの日か再び共通の車軸につながっていくのだと思います。それが50年先か、100年先かはわかりませんが・・・そしてそのとき、「共有性」という特質を持ったヘンデルの音楽が、それを結びつけるのに大きな役割を果たすような予感を、私はもっているのです・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.27 23:22:28
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