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朝早く起きて、厳島神社に参ってきました(--)
といいましても宮島まで行ったわけじゃなくて、神戸市内にもあるんですよ。平清盛が福原遷都を強行した際、新都の周囲7箇所に厳島神社を勧請してきたんだそうで、いわば分家ですね。現存してるのは1社だけですが。ま、町の真ん中にぽつんと建ってる小さな社ですがね(汗)・・・ただ、遷都が本格化した際には、本社もろとも移転の構想もあったのかも知れません。 その「分社」から歩いて数分で清盛塚。北条政権時に建てられたという石造十三重の立派な塔でして、長らく清盛の墓と信じられていたそうですが、発掘調査で遺骨は発見されなかったそうで、ただの供養塔らしいです。 熱病で死んだ清盛の遺骨は、遺言によって福原に埋葬されたと伝えられていますが、実際にどこなのかはわかってないんですね。築造に生涯をかけた港に散骨されたという説もありますが、いまとなっては突き止めようがなく、やむを得ず兵庫港に近い地に供養塔を建てたのでしょう。 清盛をはじめとして、平家政権のことは歴史の教科書をみるとあまりいいように書かれてませんけど(汗)現在の歴史評価というのは要するに勝者(源氏)の論理で書かれたものでしてね。清盛の事蹟などをみていくと、当時の日本人としては桁外れのスケールをもった人物だったことがわかります。 国家経営の基本に海外貿易というものを置き(貿易立国、ですね)、そのための港などを整備し、さらには権力中枢(天皇)までその地に移して政治経済の両面の実権を手元で集中管理しようというわけで・・・ただ手段がいささか強引でいかにもワンマン政治家ですけどね(爆) もちろん神戸のように山と海が迫った狭い土地に、京都や奈良のような条坊制の新都をつくろうというのは土台無理でして、本気でやるなら古代フェニキアみたいな臨港都市をつくるべきでしてね。皇居にしても平安京の内裏のような平面じゃなくて、ヨーロッパの石造城砦みたいな高層建築でなきゃ、とても土地が足りません(汗)・・・そういった従来の日本の常識を覆す都市計画を立てるブレーンがなかったところが彼の限界ですかね。 ま、その限界はあったとしても、清盛や平家政権の歴史的再評価というのは、今後進められていっていいですね。だいたい神戸という町は源氏嫌いが多いんで(爆)・・・神戸は明治開港によって発展した新しい町、というイメージが強いでしょうが、歴史はずいぶん古くからの蓄積があるんですね。福原京以後あまり歴史の表舞台にでたことはなかったですけど、国内海運の主要基地として栄えてきましたし、明治以前でもっとも海外との交流が深まったのは安土桃山のルネサンス期ですが、その直前の応仁の乱で焼き払われて壊滅的な打撃を受けまして、この時期に貿易の表玄関の機能を堺や博多に譲ってしまっていたのがなんとも痛い(汗)・・・市民自ら自分たちの町の歴史にもう少し理解を深めて、誇りをもってもいいんじゃないかな。 私の遠い先祖が五島列島の海賊で隠れキリシタンの一族らしい、ということはこの日記でもたびたび書きましたし、昨年の今頃は祖母の語るCredo家大叙事詩をご紹介しましたが(汗)・・・五島など西海の島々には平家の落人伝説も多いですし、そのほか流刑になった政治犯とか、ありとあらゆる反体制・反権力分子が流れ込んできていたようですから、私の血の中にはそういった反骨の遺伝子がぎっしりつまっているんでしょうかね(爆) ・・・などと妄想にふけりながら、清盛の夢の跡を散策してまいりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.14 12:59:46
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