020151 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Moyashi

Moyashi

黄封筒

黄色い封筒を受け取ったSは正直困り果てていた。
朝、見計らっていたように、彼が目を覚ましたと同時にコトンとドアに備え付けられているポストの中にこの封筒は投函されていた。
Sは壊れゆく夢の残像を必死に追いかけていて、頭のどこかを中指か何かで突付かれた気がした。つまりSはその瞬間まどろんでいたのだ。
良い夢だったのかもしれない。でも喉の奥から湧き出てくる苦い唾液は何なのだろう。
後頭部から首筋にかけてきつく絞り込まれたような圧迫感が波のように押し寄せてくる。
多分悪い夢だったのだろう。
おぼろげながら憶えている夢の断片(Sが荒れ狂う近代的な建物内で立ち尽くす情景を斜め上から見下ろした視点)は今この瞬間にも忘れて去っている。
悪い夢に違いない、そう思えたとき途端に悲しくなった。
掛け布団を深く被り、泣き出そうとした。
でもSには何が悲しくて何が悲しくないのかがわからなかった。
もちろん誰も教えてくれはしなかった。
それはSがこの部屋に置いて、あるいはこの壁に囲まれたマンションの中に置いて全くの一人だということ意味していた。
Sは深く布団を被っていると、自分の中身が徐々に重くなってゆくのがわかる気がした。
少しずつ壁単位で密度を上げればよいのだ。
マンションの中の壁。壁の中の布団。布団の中の自分。
その重さをひしひしと感じているとSはうまく泣ける気がした。所詮、目頭から出る涙は重力に逆らうことができないのだから。


頭を突付かれた感覚をSは思い出した。
しかし、布団から出ることは今のSにとって難しいことだった。
体がべっとりと万年床に張り付いているのだ。
ほって置いて、また寝てしまおうかとも思った。
これ以上泣くという作業もあまり意味を持たなかった。
でもそんなことはSにはできなかった。できるはずがないのである。
なぜならば、それはもうドア一枚隔てた向こうからポストを通じてこちら側へと生み出されてしまったからだ。
Sは布団を出ると、右肩を冷蔵庫にぶつけつつゆったりと玄関へ向かった。
様々な明細に紛れて一番奥に入っていたのが黄色い封筒だ。
Sはポストを開けると同時に落ちて散乱した各種明細を無視し、黄色い封筒を手に取った。
表を見ると住所も宛名もなにも書かれていなかった。
裏へひっくり返すと丁寧に糊付けされた封筒の蓋の部分以外、特に何か書かれていたわけでもなく、不自然なほどのっぺりとした印象の封筒だった。
Sは素直に、この封筒を怪しんだ。
先ほどまで泣いていたせいなのか、右に鼻から水っぽい粘液が出ていたが気にならなかった。
全神経は黄色い封筒を握る右手に集中されていたし、言いいれぬ恐怖が背中から忍び寄っているのがわかった。
どうみても封筒の中身は入っていなかったのだ。

Sは考え始めた。
ポストに入るものといえば、新聞紙や手紙、電気や水道ガスの明細や時折回覧板がある。
封筒もまた然りだ。
だが、なぜに空の黄色い封筒なのだろう。
おまけに丁寧に糊付けまでされてる。
余った糊を拭き取った形跡さえない。
それは如何なる蛇足の余地もない、まさに完璧だった。
イームズでさえ、パーフェクトな機能美だと舌を巻くかもしれない。
恐らく、これを糊付けした人間は封筒に糊を付けるという作業に無意識なまで精通しているのだ。
ただ、この世の中に「封筒の糊付け」に精通した人間など果たしているのだろうか。
封筒を作る内職をしていれば、これだけ見事な糊付けをできるかもしれない。
しかしだ、封筒の内職というものは封筒を作るという機能的には過程の作業なわけであり、最終的な封筒の機能である蓋の部分を糊付けするという作業には全くもって関係ないのでは――――


Sは黄色い封筒を眺めながら、冷蔵庫へ向かった。
冷蔵庫を開けると、中央の段に昨日の飲みかけの缶ビールがあった。
Sは半分ほど残った缶ビールを手に取ると、一気に飲み干した。
とても冷えていたが、炭酸は抜けきっていた。
Sはこれを締まりのないアザラシのようだと呼んでいた。
アザラシに罪はない。
アザラシと勝手に名を付けたどこかの学者が悪いのだ。
いづれにせよ、Sはアザラシに関するどうでもよい考察をやめた。
Sにとって今重大なのは、アザラシでも、白熊でも、貧乏な学者でもなく、この黄色い封筒なのだ。
飲み干されたアザラシの缶は床に投げ捨てられ、Sは再び封筒の一部と化した。
中身のない封筒ほど意味のあるものなんてこの世にどれほど存在するのだろうか。
どうして、中身を入れずに蓋などしてしまうのだろうか。
いや、待てよ。もしかしたら空の封筒などというものは自分の早とちりで、実は薄い紙か何かが綺麗に、そしてぴったりと入っているのではないか。そうすると、話は簡単になってくる。
誰かが、私に、何かを、伝えるための封筒なのだ、と。


Sは床に散らばった雑誌類を避けながら、カーテンに近づき、思いっきり左へ開けた。
外はしとしとと6月の雨が降っていて、辺り一面濁っていた。
しかし、封筒を透けさせて中身を見る天気ではギリギリあった。
Sはガラスにピッタリと黄色い封筒をくっつけ、距離を測りながら見てみた。
だが、Sはこの行動を深く後悔することとなった。
全身の毛穴という毛穴が(特に頭頂部から耳の裏にかけて)一気に広がった。
封筒を持つ右手はブルブルと震え始めていた。
思考はあちらこちらに飛び、おととい食べた冷凍うどんを心の拠り所にしようとしていた。冷凍うどんの抱擁力を推し量ってみたが、全くわからなかった。

つまりだ、Sの見た黄色い封筒の中には何も(正に紙切れ一つ)入っていなかったのである。

Sは今すぐここから居なくなりたかった。
ガラスにピタリと接したままのこの黄色い封筒が突然、渦巻く深海のように思えたからだ。
見れば見るほど、Sは吸い込まれてゆく感覚に襲われた。
足の裏が床から1センチ浮いていた。
上下左右のバランスがうまくとれず、思わず膝から崩れ落ちた。
この黄色い封筒は、すでにこの部屋に置いて確実に重要な部分を占めている。
Sにとって、それは分かっていたことなのかもしれない。
でもそれはまだ、無視できた程度のものであった。そうするしかなかったのだ。


Sは立ち上がろうと片膝を床につけ上へと踏ん張ってみたが、その力は上へではなく後ろへ働き、床においてあったビールの空き缶(あるいはアザラシの缶)で足を滑らせ、あえなく左腕から崩れ落ちた。
Sは仰向けになりながら、黄色について考えてみた。
どうして黄色である必要があるのだろうかと。
でもそれ以上、黄色についての考えがまとまることはなかった。
砂の壁をよじ登るように、答えは下へ下へと潜り込んでいった。


ポストからは今も風がこちらへと吹き込んできている。黄色い封筒を握り締めたまま、Sは動かなくなった。
あるいは動かなくなったのはSではなく、この部屋自身なのかもしれない。
ドアの向こうでは絶え間なく人の足音が行き交っている。

誰一人としてこちらを意識するものはいない。


© Rakuten Group, Inc.
X