709385 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Potatos Diary

目が見えるうちに

目が見えるうちに(母)
    (その1)
  「母と三味線」

 前にも書いたが、母はベーチェット病で、症状は良い時悪い時の波があります。
 失明の恐れがあると言われたのが40代半ばでした。

 無類の読書好きの母には、とてもつらいことでしょう。
 母は働きづめでありましたが、本を読む事と、俳句を作ることは、昔から僅かの時間を割いて楽しんでいました。
 しかし、失明は本が読めなくなるというそんな甘いものではなく、大正生まれの頑固、ワンマン亭主がいて、主婦としてどうしたらよいか、目の前が真っ暗になったそうです。

 そのころ、私はフルタイムで働きながら、主婦、母親、職業人の三役をこなすのに必死でした。
 そんな私に心配かけまいと、母は何も言わなかったので離れて住んでいる私はずっと後までその事を知りませんでした。

 母が死を思いとどまったのは、私とは年の離れた弟や妹がまだ成人していなかったから。
 死ぬのは見えなくなってからでも間に合う。見える間に、少しでも子どもを大きくしてから・・と考えたそうです。
 次々と体調が崩れる中で、いつ見えなくなるかと怯えながら、数年が過ぎました。
 ついに、弟も妹も結婚して独り立ちした時、視力はまだ無事でした。

 その頃には、「目が見えなくなっても何とか生きたい」と思えるようになった母は、三味線を習うことにしました。
 本当は子どもの頃からお琴をやりたかったのだそうですが、父親に早死にされてそれはかなわなかったのです。
 失明してから、大きなお琴を取り扱うのは無理と考えたた母は、三味線を選びました。

 もう、60歳近くなっていました。「50の手習いでなく60の手習いなのよ~!」と母は笑う。
 退職していた父は、母と共に菊をハウス栽培して出荷していたので、忙しい合間の練習が始まりました。
 目が見えなくなるのが先か、ある程度、弾けるようになるのが先か・・・

 あちこち症状が出る中で、特に足の関節が痛みました。
 痛み止めの座薬を入れて、自転車の荷台に座布団を敷き、三味線をのせて先生のところへ通いました。
 居間で練習すると、父がうるさがるので、2階への階段を這うようにしてあがり、納戸の戸を閉めて練習したそうです。

 母の足がもう自転車には乗れないほど悪くなる頃に、三味線は師範の資格が取れました。
 自宅の片方が空いたので、そこが三味線教室になり、先生も生徒もそこに集まり練習するようになりました。

 皮肉な事に、あれほど失明を恐れて準備した母がまだなんともない内に、思いがけなく父の方が脳梗塞の発作で失明してしまいました。
 目が見えなくなった父を置いて外出しにくい母に、自宅の三味線教室はいい気晴らしになりました。
 
 今は父母ともに、私の家に移り住んで貰いましたが、実家はそのままにして、母の妹(私の叔母)に住んで貰っています。
 三味線教室はそのままに、毎週火曜日の午後集まっています。
 自宅がそのまま残っているから、母は自分の家に帰るように、いそいそとでかけ、友人に会うのが楽しそうです。

 母の足は、3年前に我が家にきてから、両膝の人工関節の手術をして、30年にわたる痛みから解放されました。
 三味線は、いつ目が見えなくなっても大丈夫なくらい上手になりました。
 けれども、病状もすっかり落ち着いているので、母はもう失明することはないでしょう。

 病院にいる父に時々会いにくる母は、主治医にすっかりまかせて、父を励ますだけです。
 運命に逆らわず、その時々を精一杯生きてきた母がとても頼もしく見えます。
 日々、父の病状や言動に一喜一憂しては動揺している私に、母は時に眩しい存在です。





    (その2)
 「ファッションショー」

 今日は、母の検診日です。
 母は、ベーチェット病が判明して以来、ずっと医大病院にかかっています。
 身体のあちこちに症状が出るので、内科の他にも、皮膚科、整形外科、眼科の受診日もあり、月に最低で2回は医大に行きます。
 我が家に来てから、両膝の人工関節の手術をして2年経つが、経過は良く、痛みがなくなり歩ける距離もどんどん増えてきました。

 最初の脳梗塞で父が失明するまでは、働き詰めだった人生を取り戻すかのように、父母は海外や国内の旅行を楽しみました。
 父が最初に倒れた8年前は、二人でアメリカとカナダの旅を終えて帰ってきた翌日でした。
 「ナイアガラの滝や、グランドキャニオンをセスナから見下ろせたのは素晴らしかったけれど、あまり素敵なものを見て、目がつぶれてしまった・・」と、父は失明の悲しみを冗談に紛らせて言ったことがあります。

 父は、もう旅行をできないけれど、せめて母に残された人生を父に付き合わせるのは忍びなく、母には旅行を勧めています。
 しかし、1人で参加するのは淋しく、身体の弱い母には不安もあります。
 私も主人も旅行好きで、父母と一緒の旅行も行った事はありますが、今は父を置いて母と一緒に行ってあげる訳にはいきません。

 昨年、母は叔母と一緒に八丈島に出かけました。
 叔母は兄弟の末っ子で、母とは11歳違いで元気です。

 父母が私の家に移り住んだ為、そのままになっていた家に住んでくれています。
 母が、三味線の教室や民謡の度に家に戻れるのも、叔母が住んでくれているからであり、叔母は母と一番気の合う妹です。
 一時は危ぶまれた父の容態が、すっかり落ち着いてきたので、一足先に春を味わってきましょうと、叔母と二人で旅行の計画が立ちました。
 3月17日出発、水戸の梅を見に行きます。
 お花が一杯の房総半島も回る事が花の好きな母にはとても楽しみ。

 この間から、母はブラウスやら、春物のセーターなどチョコチョコ買って来ています。
 旅行に行く時は、何かしら着るものが増える。
 そして、あれこれと洋服を引っ張り出して、着て見せてくれます。
 「ねぇねぇ、これで寒くないかな?」
 「ねぇ、これ派手じゃないかな?」
 「ねぇねぇ・・・」
  そして、今度はバッグ、「ねぇ、これ大きすぎるかな?」
 「お土産買ったら、宅急便にするからいいよね?」
 次は靴。  そして帽子。 スカーフ・・・

 出発まで1週間切りました。
 そろそろ、明日あたりには始まるなぁ・・と、内心ニヤニヤしつつこの日記を打っていました。

 と、これを打っている側に母がきましたた。
 「ねぇねぇ・・・」
 振り向いたら、ブラウスを、何と2枚!着ています。
 「ねぇ、どっちがいいと思う?」・・・(爆)
 日記を打つのに気を取られている私は、一応眺めましたが、「うん!どっちでもいいよ~」
 あ!しまった!・・・「どっちでも」じゃなくて「どっちも」だったわ~。

 つれない私に、「うふふ!」と母はテレながら行ってしまいました。
 ごめ~~ん!!母さん!!
 あとで、ゆっくりとファッションショーにお付き合いしますね!



© Rakuten Group, Inc.