意味は「ある」ものではなく「みいだす」もの
囲碁をやっていると意味の意味がよくわかります。 おそらく囲碁の最善手順というものが解明されたとしても、その手順自身は無味乾燥なものではないかと想像します。あらゆるすべての変化を見通してしまったら、その手順でしかありえないというだけで、味も素っ気もありません。ほかの手ではダメだからここに打つという繰り返しなわけですからね。 碁の変化はほとんど無限ですし、それに比べれば人間の力は限定的なわけで、ちっとも真実には到達できません。しらみつぶしに演算するということなら、すでに家庭用のPCでも人間を大きく凌駕しているのですから、碁の無限大の変化の前では人知は無力にすら感じます。しかし一方で、人間の知性は(囲碁に関しては)今だに人工知能に勝っています。単純な演算能力は劣っていても、考え方で差をつけているわけで、そこが人間の知性のすごさです。 例えば「厚み」という言葉があります。石の強弱を表わす概念ですが、これは人間が囲碁ができてから勝手に考え出したもので、実際に石が厚かったり薄かったりするということはではないのです。人間が碁盤に向かって「石の状態に強弱の差があると考えてみよう」と思った瞬間から石が厚くなったり薄くなったりするのです。そこから「厚みを生かす戦術」「厚みを殺す戦術」といったふうにいろいろな囲碁理論が生まれます。こうしてただの石にいろいろな意味づけをし、それを元に思考を広げていることで、人間はっ限られた思考能力で豊かな結果を得ます。 検討で「その手は意味がない」などと生徒を叱ることがあるのですが、ここでいう「意味」は私にとってはあたかも囲碁そのものが始めから内蔵しているような気がするものですが、実は私自身が囲碁の変化の中から見出しているにすぎません。意味があると感じている人にとっては自明のことで「当たり前だ」と思うのですが、案外当たり前ではないかもしれないのです。 「意味」というものの重要な点は、「始めから確定的な意味というものが存在するわけではなく、自分の考え方次第で意味が生じたり生じなかったりする。また考え方ひとつで生じる意味の内容も変わってくる」ということではないでしょうか。自分の中で確信の持てる「意味」も、あくまでも自分の考えの基づいてのもので普遍的な「意味」ではないことが盲点になります。意味ってかなり不完全で相対的なものでもあると思います。 「生きる意味が分からない」というよくある悩みがありますが、意味(答え)が始めからあるわけではないのです。この悩みには「自分の考えた人生の意味を正しいこと誰かに保証してもらいたい」という裏面がありますが、そんな絶対的な意味なんてはなっから存在しないので、それを求めても苦しいだけではないでしょうか。 碁盤に向かってるとき、自分の限られた知性では所詮最善手などは分からず苦しい思いをします。答えが出ないと知って考えているのだからある意味ばからしい作業です。しかし、わからないながらも自分なりの意味を込めた着手を下して、それなりの結果が出た時は非常に充実感があります。それから類推するに、生きることとかもわからないながらも懸命に生きてみると充実感を味わえるのかもしれないと思ったりします。 ともかく、無限の世界に対してどう意味を見出してゆくかが人間の知性の真価の問われるところであり、人生を豊かにしてくれるものではないかと思います。また自分の見出した意味を過信しないことが大切とも思います。 最後に余談ですが、囲碁というゲームの面白さは、ほとんど無限という変化があるために、そこで見出せる意味もほとんど無限だということにあるのではないでしょうか。考えて悩みぬく楽しみがあります。また自分の思った良い手が相手に打破されることはしょっちゅうなので、独善に陥らず謙虚な気持ちにさせてくれるところも良い点でしょうか。