愛媛城めぐり 大洲・川之江
高速土日1000円を利用して、愛媛城めぐりをしました。愛媛城めぐりと言うが、有名どころの松山城・宇和島城を除外して大洲・川之江へ...まずは、大洲城本丸までは、小高い丘という感じ、歩いてすぐに城に着きます。以下ウィキより.....大洲城の歴史大洲に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年[1]に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守[2]をはじめとする建造物が造営された。また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に渡り大洲藩主として治め明治維新を迎えた[3]。維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥[4]のために明治21年(1888年)に解体された。現在の天守は伝統工法を用い、平成16年(2004年)に復元されたものである。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(82番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。2007年(平成19年)3月、河辺地域浪漫八橋・長浜大橋とともに美しい日本の歴史的風土準100選に選定された。つづいて、川之江城城門をくぐると....りっぱな桜が植えてありました。川之江城は、大洲より高い山の上でした。城に近い駐車場は、ちっと狭いです。川之江城に行くなら、山の下にある、駐車場からてくてく歩くと良いかも....以下ウィキより 川之江城の歴史南北朝時代に南朝方の武将であった河野氏の砦のひとつとして、土肥義昌が1337年に川之江城を築いた。その後戦国時代には城主は妻鳥友春になっていたが、土佐の長宗我部氏へ河野氏に背いて通じたため、河野氏配下の河上安勝によって落城した。 豊臣秀吉の四国平定以後は、川之江地方は小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が変わったが、加藤嘉明の時代に川之江城は廃城になった。一柳直家が1636年に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが1642年に死亡し領地は没収され、以後天領になったため、再築されなかったそうです。 この時期、桜が咲いてきれいです。城めぐりはなかなかいいですね。