発達障害について
> sakana さんへ返事を書こうと思ったら800字を越えていたため反映されませんでした。それで記事として独立させることにします。これだから、楽天はイヤなんだけど。さて。ご親切に蒙を啓いて頂いて下さってありがとうございます。なんだか思ってたよりはるかに深刻な症状なんですね。「自分に背中があることに気づかなかった」とわ。ようするに身体性の次元と、知覚とか意識の次元をつなぐ回路が損傷しているらしい。これは厄介だ。患者さんには失礼ですけど、がぜん興味が湧いてきました。>「言われなくてもカンで気がつく機能」「わざわざ考えずに、な> んとなく当たり前と思いこむ機能」の部分が欠けているので、い> ちいち言われたり、リクツで考えたりしたものを、一つずつ丸暗> 記して守るんです。ただ、「何となく気がついた」ものじゃない> から加減がわからず、ゆうずうがきかないんですね。私たちの生活のほとんどは習慣化された動作の連続で成り立っている。おのずとそれに馴染み、そこでのルールを受肉化することで心身の発達が成就される。ところが、この「なんとなく解る」機能、いいかえれば、直観とか共感の力の発達が阻害されると、世界は断片化された知識や情報や理屈の集積のように見えるのでしょう。なるほど電話帳が面白く思えるはずだ。> 治癒したというより、「耳が聞こえなくとも、目を使って文字言> 語を覚えた」とか、そういう感じに近いのでは?「目を使って文字言語を覚えた」。。なるほど、よく解ります。つまり言語や記号はじつは身体性に裏打ちされているのに、その部分が剥落しているのでしょう。ただ私に関心があるのはそうした器質障害の部分ではなく、障害によって逆に明らかになるような私たち人間の認知構造のほうです。私たちは日常の多くのことを易々とこなしているように見えますが、じつはその背後には数々の適応の努力がある。無意識の底に沈んでいる、そうした適応の努力を再認識する必要がある。日常というものがいかに数々の努力により支えられているものであるか。で、くりかえしになりますが、あきらかな器質障害によるのではなく、もっと軽微なところでの適応の障害というものが世の中には多々あって、私たちはなかなかそれに気づかない。今後の子どもの教育というものを考えるうえで、このグレーゾーンをはっきりさせて行く必要があるように思います。現に脳に障害があるわけでもないのに、生活への適応力を涵養されずに育った子どもたちが今ひどく増えているのではないでしょうか。