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18歳。 無知と高慢と偏見の季節だった。
ほんの4ヶ月前前まで、私は受験生であり、どこに行くのか決まってなかった。高校生なりに、英語もロクに話せないし、外の世界は興味がないし、未知の世界は怖いし、外国にはできれば一生行きたくないと考えていた、いや、考えてなかった。行く大学も決まってなかったので、それどころではないという狭い世界に住んでいた。 海外初夜はフィリピンで迎えた。 ホテルのボーイ、ルウさんにディスコに誘われた。ディスコには行ったことはなかったし、踊りも知らなかった。 気乗りはしなかったが、連れて行ってもらうことにした。 タクシーで「ディスコ タバスコ」へ。 一番前のいい席に座った。舞台があり、ショータイムがあった。客は、皆、それなりに着飾っていた。 ビキニ姿で踊るダンサーのラテン仕込みの熱くなるほどの腰の振りを見て、私は、驚いた。 数人が踊り、それぞれのダンサーが空のビアグラスを持って、それぞれ適当にテーブルに行き、ビールをついでもらい、踊りながらステージに戻り、一気に飲み干し、そして、ヌードになった。 ヌードになるのがディスコなのか、と私は思った。 客は、半分は女性であり、着飾っているのに、こういうものかと私は驚いた。 私は、常夏仕込みにぴったりあったサンミゲルビールを鬼のように飲んだ。旨い。感心し、若さに任せて、酔うほどに飲んだ。 トイレに行くと、トイレの中には数人の男達がたむろしており、肩を揉み、蛇口をひねり、おしぼりを出してくる。こいつはボラれたは困ると思い、思わず、5円玉を出し、「穴が開いている硬貨は珍しいだろ。価値があるんだぜ」と訳の分からないことをほざき、たむろする男を喜ばせた。馬鹿にしているような自分に辟易する。 タバスコの商権を日本で持っているのはアントニオ猪木だ。タバスコを買えば、彼の口座にチャリンといくらか自動的に入る。プロレス業界に貢献だ。 真ん中のフロアでは客が踊っている。 しかし、ショータイムは永遠に続く。 ダンサーが寄ってきて日本語で聞いてきた 「アナタ、ナンサイ?」 「18」 「ワカイネー、ハンサムボーイ、コレ、アゲル」 といって、股に手を入れ、そっと手渡してくれた。 1本の陰もうだった。 私の初海外初夜はそうして始まった。 初めての海外旅行は高校を卒業した年の夏休み。フィリピン。 実は、ワタシはハンバーガーというものをそれまで死ぬほど食ったという経験がなかった。ワタシの高校生時代というと、やたら腹を減らした小汚いが野望に満ちた羊であった。そして、いつも腹を減らしていた。部活動が終わり、駅前のショッピングセンター(ダイエー等)を通る時、背中とお腹がひっつきそうになるのを我慢して帰ったものだが、たまには、ハンバーガーショップ(ドムドム等)に寄り、少ない小遣いの中から、今日は1個食べるべきか何とか家まで我慢すべきか検討に検討を重ね吟味し、清水の舞台から飛び降りる断腸の思いでハンバーガー一つを購入してみたり、閉店30分前に半額になる模擬店の焼きそばを閉店3-分前まで模擬店前でひたすら待ち続けるのボレロになっていたのであった。 そういう切なくも逃れられない高校時代の制約の中から、急に自由という「おもちゃ」を与えられたことと、物価の安さと言う未体験ゾーンに突入したことにより、ハンバーガーへ不満と欲求を満たす、止揚状態へと進んでいったのであった。 フィリピンにはマクドナルドの様な外資系は勿論入っているが、ジョリビーという国産ファーストフードもあり、そこに入国1日目にしてハンバーガーを6つ頼んでみた。ワタシの復讐の胃袋では可能かと思ったのだ。店員は心配そうな顔をして、本当なのかと再三尋ねられた。そしてワタシは高校の時の存分にハンバーガーを食ってやるという夢を果たした。かくてハンバーガーはたった3つしか食えなかったことも同時に判明したのであった。 こうしてワタシは、人生、はまっていくのであった。 モシモシパーラーもスーパーに変わっていた。 Bサントスもいなかった。 下町 夕刻。常夏の国の都会、裏通り。辺りが徐々に暗くなっていくのが良く分かる頃。 近所の人々は夕涼みと称して、ボコボコに亀裂の入ったコンクリートの道端に簡易長椅子や塀脇に座り込んだり、佇んだり。蚊にかまれながら腕をボリボリ掻きながら世間話をするふわっとした服を着たおばさんたち。ビール瓶片手にパンツ一丁で、とりとめのない話をしながら、ごく簡単なルールの賭博に興じるおじさんたち。怪しげにたむろして、コソコソ話をする若い男たち。走り回るボロ着の子供たち。ばら売り煙草を売る青年や、バロットという孵化直前のゆで卵を売る青年はうろうろし、時折、青年の代表か使い走りが人数分だけ煙草を買い求める。寿命寸前のエンジン搭載したやたら大きく割れた音を出すバイクが、力なく、排気ガスだけ好き放題撒き散らしながら、ノロノロ通り過ぎる。 個人商店何でも屋サリサリストアに、裸足の小さな子供が煙草一本を買い求める。「まあ、子供なのに火をつけてもらっているわ」と話に夢中だったおばさんの一人が目を丸くして指差す。子供は一吸いだけして、少し走って行き、ギャンブルに興じる父親に渡す。「なーんだ」と残念そうにいうが、目は安堵。 やがて、限りなく橙色に近い夕日は、消え、通りは、急に暗くなる。 排気ガスが混じった空気は、暑さと融合しモワッっと薄暗く澱んでいる。この混泥は少し危険な雰囲気を生み出し、モワッの中に漂わせ続ける。生活は苦しいが、そのモワモワ感に紛れ、生活臭には嫌悪感がない。貧乏であっても、皆が一様に貧乏で、等身大であるために貧乏臭さがない。 「汚れ」に標準がない。「清潔」に、同様、基準がない。 皆が道端に出ることによって、武器の不携帯を証明し、草履姿や身軽な格好が、無防備を立証している。そこでは、基準は必要なく、馬鹿な煽動者が入り込む余地はなく、いや、煽動したがる者をも抱擁してしまうかも知れない。そこでは標準がなく、家から1分以内に何でも日用品は売買するところがあり、1分以内に交通手段を利用でき、1分以内に同世代の友達がいた。 日本の戦後から昭和30年代ぐらいまで。こんな経験はしていないというのに、何か懐かしい光景。 日本の戦後から昭和30年代まで、日本は、経済成長の夢と明るい将来があった。ここにはそれがないというのに、どこか明るい。 近年の日本の子供たちに、明るい将来を抱いていない。もしかして、懐かしいというより、将来の日本を見ているのか。そんな錯覚に襲われる。 サリサリストア。何でも屋。洗剤や塩やソースを小分けして売っている。勿論、金のない近所の人は、サリサリストアに小額の借金をして、そういう日用品を少しずつ買う。少し金がたまった人は、すぐに、サリサリストアを開店させる。 下町 以前、ずっととめさせてもらっていたパサイシティの下町ルトンダにも行ってみる。左側にあった家はなくなっている。皆、島に帰ったという。しかし、相変わらず子供たちはいっぱいいた。あの頃、ここで遊んでいた子供たちも今は、20代だ。どこにいるのだろうか。 左のサリサリストアはまだあったが、人と建物(掘っ立て小屋)が違った。ここではいつも、25円のビールを飲んでいた。コカコーラも25円だたので、ついついビールを頼んでしまう。息子のノエルは、ひょうきんないい奴だった。妹のディジーは、初めていったとき引っ込み思案だったが、次に行くと、じゃぱ行きさんになっていて日本語を話した。姉のテスはフィリピン人にしてはえらく真面目で、ちゃんとファーストフードの店で働いていた。時給40円。 右側は、今は、駅の入り口になっているが、当時は1階がレストラン「マブハイ」だった。社長5人に囲まれビールを飲んだこともある。なんだか様子がおかしいと思ったら全員オカマだった。2階は、ディスコ「スターゲイザー」であった。結構格式あるディスコで草履はダメだったが、外国人なので、何故かOK。しかし、こんなところ外国人なんか来ない。男女ワーワー踊ってビール飲んで、一見普通なのだが、何故だか、ショータームがあり、ヌードダンサーがでてきたりなんかするのだが、男も女も、そんなの見ていなくて、はやくショータイムが終わって自分たちが踊る時間を待つことでウズウズしているのが面白い。 下町 左の建物の1階の階段の下に扉を設けた2畳の部屋で新婚生活を始めたアリエル夫妻の部屋にも泊めてもらった。2畳に3人はなかなかきつい。 下町 アリエルは、結婚してもやっぱり無職のままで、新妻がレストランマブハイで働いていた。 寝ていて、私は、何かにうなされ、起きると、新妻が泣きながら、「マハルキタ、マハルキタ(ILOVEYOU)」を繰り返しながら、アリエルの唇をかんでいた。 きっと、その前に「ねえ、私たち、これからどうするの!」といって軽い喧嘩をしていたのだろう。でも結局、愛してるわ、で終了なのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.01 22:37:02
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