日常、何が普通かは疑問を残すとしても、普通の生活をしていて、まあ生活の豊かさには疑問を呈しながらも、生きていけない程の貧困に喘ぐこともなく、買えないものは山のようにあり、方や買えるものは山の様にあり、ときどきショックを受けて、時々いい目に遭遇したりなんかして暮らしている。その中に罪の意識はない。キリスト教のいうところの原罪とは違うかもしれないが、物質的に享受している国は、地球規模で将来の自然や資源を随分先食いしている。個人個人としてはこの広い地球で何も悪いことなんかしていないと思っている。ガソリンを巻散らし、スプレーを吹きちらし、商品を消費するために購入し、それでも、やっていることはかわいいものさ、と思っている。我々はあくまで主人公で、自然は背景にしか過ぎない。製造元や国は、問題が大きくなるまで対処できない。(それでも例えば、随分、変わってきてはいるのかもしれない。オランダは温暖化に対して熱心だ。なにせ一番に国が水没してしまうのだから)
かといって、この快楽を簡単に手放すこともできないと思っている。曖昧なまま我々は「しあわせ病」に取りつかれている。「しあわせってなんでしょう」と小学6年生の時に担任の先生から年賀状を頂いた。そのとき初めてしあわせについて考えてみた。でも分からなかった。分からなかった理由が分かってきたのは、それがあまりに人類史上新しすぎる概念であると分かってからだろうと思う。百年そこらでは規定はできても実感を持つには斬新すぎる。勢い、結論を急ぎ、分からないままに総体をつかめぬまま部分に走った。しあわせはパーツに分断された。パーツは金であり地位であり名誉であり何がしであった。そのため、我々は走った走った。我々は快楽に溺れた溺れた。
例;人類史はほとんどの期間を飢餓の時代であり、紛争の時代であった。人を含む生き物は元来飢餓用の体にできている筈だ。それからたまたま紛争のない時代と地域に住んでいたので漠然とした平和を願いつつ生きているが、遺伝的には好戦的なのかも知れない。(遺伝より環境が強いと思うけれど。だからそう簡単に今の環境を崩して一段下の生活をするとすれば、苦しいと思うけれど)
そんなことあじさい見ながら考えるなよな。
今日のメシ