空港からタクシーに乗るが、もめて、空港に戻ってもらう。金は払わない。もめる。
「うーん。インドだなあ」と思う。
タクシーに乗り直して街に向かう。
車や通行人ギリギリの所を猛スピードですり抜け、安っぽいスリルを味わうことができる。安全の中に隔離された遊園地のスリルを味わうアトラクションに乗っているようだ。空港から百ルピー。
タクシーを降り、すぐさまうろついているおっちゃんと知り合いになり、ぶらぶら歩きながら会話をする。
「先日、カルカッタで大きな祭りがあったんだ」
「へえ、そういえば、俺もバラーラスでホーリー祭のときに行ったなあ」
「あそこは良くない。町中色を掛け合うなんて汚れて最低じゃないか」
「今回はBBDバッグ地域に宿を取ったけど、昔はサダルストリートに泊まっていたんだよ」
「あそこは汚くて最低だな」自分の住んでいる地域が一番なのである。
「うーん。インドだなあ」と思う。
そして、ふと気がつく。予定調和と確認作業のためにここに来たのだろうか。かつての印象から抜けることができないのだろうか。いきおい、ヒルトンホテルの様に、部屋の中はどの国に行ってもそんなに変わらないというマニュアル化したホテルチェーンに安堵を覚えてしまうのではないだろうか。そのうちハワードヒューズみたいに世界中どこへ行っても机の配置から同じにさせることに安心感を覚えてしまったらどうしよう。
少しでも富める者は、貧しい者に布施をするという考え方はインドだけでなく、結構多くの世界で見ることができる。ただ、その貨幣価値を崩壊させる様な行為はタブーである。短期間では、そのあたりがよく分からないのである。
つきまとわれた乞食の子供に粉ミルクを買ってあげる行為。乞食とて、たいていプライドを持ってやっているので、あまりに小額だと怒り出すこともある。私が粉ミルクを買ってあげたことを、その女性は「いいカモだった」と忘れてくれることを願う。一過性のものなのだ。
ここにいると背広は乾燥して寒い季節での服つまりヨーロッパのための服なのだと感じる。
日本の真夏の冷房は背広向けのものだ。
まだ冷房が高級であるという意識から抜け出せないでいる。東南アジアの寒くてたまらないデラックスバスと同じである。豊かさは高級化贅沢化を産み、更に金がかかる。マグロを食うために何匹のイワシが必要か。肉を食うためにどれほどの穀物が必要なのか。日本は重くなっていく。
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