片腕の不自由だったひょうきんな先輩が死んで10年。走って、靴が脱げて、宙を舞った姿が滑稽でした。
人気たこ焼きやで1日3時間で売り切れ閉店になる親父が死んで10年。酔ってガハハハと笑っていた真っ赤な顔をいつもしてました。
2階に住んでいた友達の家は崩れ去り、荷物の掘り出しを手伝いに行った。最後に彼は力なく「サヨナラ、ははは」と寂しく笑った。1階に住んでいた方は亡くなった。古い60年代のレコードをまだまだ運び出そうとして、彼の奥さんは、「もう危険だからやめて」と少し半狂乱に言った。
学校の体育館に見舞いに行ったのに、逆に、リンゴや握り飯をもらってしまった。
三ノ宮センター街のある店が燃えていて、ぼさっと眺めていると、大阪から自転車で来た店主がやってきて、自転車から転がり、「おおお、やっと開店した俺の店が~」と叫んで、店に入ろうとして止めた。
一緒に来た奥さんが「明日火災保険の手続き予定だったのに」とつぶやいた。
助け出した猫が、ふと、遠くのどこでもない方向を見たら、暫くして余震があった。
私は、数日で、会社勤めの為、ホテル住まいするため、神戸を離れた。
逃げるような気がして、とても悪いことをしているようで申し訳なかった。
震災で、家族も地域も一体となり、にわか震災ユートピアになった。
少し郊外のコンビニに行ったら、おにぎりがパンパンに詰まっていた。
行きつけのバーもなくなったが、割れなかった数十本を取り出してきて、路上で営業していた。震えながらビールを飲んだ。
そうそう、やたら飲みにいった。金を落としたかった。煙草が切れても、大阪で買わず、我慢して神戸に帰ってきてから買った。
大学の同級生の友達の家もスペイン料理の店もなくなった。数日前、私はスペインから帰ってきて、帰りに店により、ハム置きと生ハム数種類を置いてきたばかりだったが、当然、それも埋まった。2日目に、三ノ宮を歩いていたら、前に、同級生の旦那であるマスターが呆然とたっていた。「生きてんですか、無事でしたか」と私は叫んだが、彼は、私の顔を見て自分のことはどうでもいいという感じで心配してくれた。私は本棚が落ちてきて顔面内出血していて目の周りがパンダになっていたから。
前にも書いたが、長田区に会った母の店は賃料値上げで、撤退した。その後すぐ地震が来て、開店準備中の中華料理屋が壊滅した。店に置いていた仏壇1000万円分助かった。
自宅の瓦礫になった前で受験生が勉強していた。
不思議なことに、戦前に建てられた建物が案外無事だった。それは経済効率ばかり求める時代ではなく、余裕設計していたからだろう。
政府は、補修費用は補助せず、解体費用だけを補助した。ゼネコンはこれとばかり補修費の見積もりは無茶苦茶高く見積もった。壊す必要のないマンションまで壊されることになった。
今、震災10年を迎えて、見事、神戸は、つまらない他の街と変わらない街になった。今、10年を迎えて、いまだ建て替えでもめているマンションが2、3棟ある。家の近くにも有名なマンションがある。建て替え決議は住民の4/5の決議があれば無条件で建て替えすることができる。後ろに山、海の見える少し不便なところにあるそのマンションは今、数件だけの住民が住んでおり、裁判中で、当時のままである。通るたびに心苦しくなる。
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