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ちょうど、10年前、三ノ宮に飲みに行った。震災1年目の居酒屋の中でのどの席でも同じ話題が聞こえてきた。1年前の震災の体験談である。 震災後、私と、後輩のビール会社のSと、震災で無茶苦茶に崩れた三ノ宮飲み屋街によく飲みに行った。勿論彼は背広姿ではなく、震災ルックで営業を続けていたのである。 行きつけのショットバーのビルは壊れてしまい、路上で、壊れなかったボトルを並べて営業していた。トイレは奥の瓦礫だった。外は寒かった。 瓦礫の街を歩いていると、よく呼び込みをしていた。我々は値段を聴いてははしごしまくった。どこにいってもその日のことや被害状況といった話ばかりであるのだが、一様に、一種のハイな状態にあった。 いろんな映像が流されていたが、一つ良く憶えているのがある。 生放送中に瓦礫の山を見つめていたオヤジ。 「この下に家族が埋まっているんだ」 そこに、画像の後ろの方から原付がやってきた。おやじが振り向いた。 「お、おまえ、生きとったんかああ!!」 息子は表情を変えずに、 「おかんも体育館におるで」といった。 そのまま2ケツして原付は去っていった。 カメラのフレームは動かなかった。 最終更新日 Jan 18, 2005 12:35:05 AM 片腕の不自由だったひょうきんな先輩が死んで10年。走って、靴が脱げて、宙を舞った姿が滑稽でした。 人気たこ焼きやで1日3時間で売り切れ閉店になる親父が死んで10年。酔ってガハハハと笑っていた真っ赤な顔をいつもしてました。 2階に住んでいた友達の家は崩れ去り、荷物の掘り出しを手伝いに行った。最後に彼は力なく「サヨナラ、ははは」と寂しく笑った。1階に住んでいた方は亡くなった。古い60年代のレコードをまだまだ運び出そうとして、彼の奥さんは、「もう危険だからやめて」と少し半狂乱に言った。 学校の体育館に見舞いに行ったのに、逆に、リンゴや握り飯をもらってしまった。 三ノ宮センター街のある店が燃えていて、ぼさっと眺めていると、大阪から自転車で来た店主がやってきて、自転車から転がり、「おおお、やっと開店した俺の店が~」と叫んで、店に入ろうとして止めた。 一緒に来た奥さんが「明日火災保険の手続き予定だったのに」とつぶやいた。 助け出した猫が、ふと、遠くのどこでもない方向を見たら、暫くして余震があった。 私は、数日で、会社勤めの為、ホテル住まいするため、神戸を離れた。 逃げるような気がして、とても悪いことをしているようで申し訳なかった。 震災で、家族も地域も一体となり、にわか震災ユートピアになった。 少し郊外のコンビニに行ったら、おにぎりがパンパンに詰まっていた。 行きつけのバーもなくなったが、割れなかった数十本を取り出してきて、路上で営業していた。震えながらビールを飲んだ。 そうそう、やたら飲みにいった。金を落としたかった。煙草が切れても、大阪で買わず、我慢して神戸に帰ってきてから買った。 大学の同級生の友達の家もスペイン料理の店もなくなった。数日前、私はスペインから帰ってきて、帰りに店により、ハム置きと生ハム数種類を置いてきたばかりだったが、当然、それも埋まった。2日目に、三ノ宮を歩いていたら、前に、同級生の旦那であるマスターが呆然とたっていた。「生きてんですか、無事でしたか」と私は叫んだが、彼は、私の顔を見て自分のことはどうでもいいという感じで心配してくれた。私は本棚が落ちてきて顔面内出血していて目の周りがパンダになっていたから。 前にも書いたが、長田区に会った母の店は賃料値上げで、撤退した。その後すぐ地震が来て、開店準備中の中華料理屋が壊滅した。店に置いていた仏壇1000万円分助かった。 自宅の瓦礫になった前で受験生が勉強していた。 不思議なことに、戦前に建てられた建物が案外無事だった。それは経済効率ばかり求める時代ではなく、余裕設計していたからだろう。 政府は、補修費用は補助せず、解体費用だけを補助した。ゼネコンはこれとばかり補修費の見積もりは無茶苦茶高く見積もった。壊す必要のないマンションまで壊されることになった。 今、震災10年を迎えて、見事、神戸は、つまらない他の街と変わらない街になった。今、10年を迎えて、いまだ建て替えでもめているマンションが2、3棟ある。家の近くにも有名なマンションがある。建て替え決議は住民の4/5の決議があれば無条件で建て替えすることができる。後ろに山、海の見える少し不便なところにあるそのマンションは今、数件だけの住民が住んでおり、裁判中で、当時のままである。通るたびに心苦しくなる。 最終更新日 Jan 17, 2004 阪神大震災の翌日、私は、ひとつの依頼を受けた。私が、原付を持っていたからである。まだ友達の安否も分からない頃でもあったのだが、倒壊した部屋に猫を飼っていたのだが、助け出して欲しいと。 私はボストンバッグを持って原付を出した。交通は無茶苦茶で反対方向に走ったり、原付も二人乗りは当り前。警察が道を封鎖していても、原付は無視して走る。まっすぐ建っている建物がなく、三半規管がおかしくなり平衡感覚が危うくなる。 皆は、人を救助しているのに、何を猫の救助に向かっているのだと変な感覚に陥る。何をしているのか分からないが、渋滞の脇をぬって私以外にもバイクが走る。唯一開いていたガソリンスタンドに長蛇の列。倒壊する家屋。 着いて、部屋を破って中に入った。部屋の中は無茶苦茶で、猫はいなかった。と思ったら、押入れの奥にいた。「おいで」をすると、人になつくことのなさそうな猫が、そろそろ出て来て、私の足元に顔をなすりつけて、怯えている。いや、安堵している。 私は、すまないと思いながらも、嫌がる猫をボストンバッグに積め、他の荷物は無視して、また部屋を出た。煙がくすぶる街の中、バイクは走り、足元のボストンバッグはもぞもぞしていた。 震災3日後、私は運転手をしていた。 オーストリアのTVクルーの運転手をしていた。 渋滞と交通ルール無視の中、私は運転をした。そのときにふと気がついた。 後部座席に座るオーストリア人は私をどういった目で感じているのか、ただの 運転手なんだなと、アジア人なんだなと。 そしてもしかして私もタイ等に行った時、運転手のことをどう思っているか思った。 その後、学校に避難している人に、火事で燃える家の前で呆然とする人に、倒壊した瓦礫を片付ける人に、インタビュアーの質問は決まってこうだった。 「これからどうしますか」 そして人々の返事は決まってこうだった。 「先のことはどうしていいか分かりません」 私はそんな考える余裕もないわと多少憤慨もしたが、かくも西洋人っちゅうのは前向き というか、起こったことは仕方ないから対処どうするか考えるものなのだなあ、とも思った。 それはそのインタビュアーの考え方だったのかも知れないが。 人間は弱いものだよ。 ほとんどの人が、お上を当てにしている様に感じた。 仕方ないことだけれども。 1月17日だけは毎年同じ日記を書いている。(再掲) 前の日、神戸市兵庫区の友達の家で数人が集まり飲んでいた。 木造アパートの2階だった。 そこの住人の実家は私の家の近所であった。 大抵は酔って面倒なので泊めてもらうのだが、その日は何となく家に帰ることにした。そこの住人もそれじゃあ、方向同じなので私と一緒に実家に帰ることになった。来ていた数人も住人が帰るので解散となった。 私は、厳しくなると予想される二日酔いの中で眠りに着いた。 そしてその時刻がやってきた。 揺れは止まらない。地響きがすごい。 世の中が終わったと思った。少なくとも関東地方は終わったと思った。止まる事を祈ったが、箪笥や本棚の下敷きになった私は、恐怖の中でも少し冷静であったように思う。 パノラマ現象か、あまりに長い揺れであった。 水は止まると判断した私は、フロに水を張ったりして、今出る水を確保。ラジオをつける。死者一人、、、、だれやその一人。 近所の人々が、あわてて外にでてきた。 「うっわわあ、あっ、おはようございます。すごかったですね~」 日常があった。 友達宅は全壊となった。その日帰った友達の家は2階が1階になった。 阪神大震災から10年目。未だに、私は、風呂の残り湯を流してしまうことに抵抗があります。汚いから捨てなさいと いわれるのですが、もし非常時に水があればたすかるじゃんって、思うのですもの。あの日、断水になるのは確実だったので、地震直後、風呂に水を張ったのは正解でした。 1994年1月17日午前4時35分、ロサンゼルス大地震。死者約60名。第一報 がクリントン大統領に入ったのが発生15分後。1時間後には、州兵1万人が出動、 その7分後に消火活動開始。消防ヘリコプター、陸海空軍、ドクターとにかく何でも かんでも許可云々関係なく総動員された。テレビや映画でも見たことがあると思う が、トリアージドクターというのが、死んだ人、軽症の人、ヤバイ人にそれぞれシー ルを貼り、ほっとけ、病院行くな、最優先で病院に運べ、を判断していき、後からく る救済活動を敏速化させた。負傷者は多かったが死傷者は少なかった。 しかしながら、黒人や韓国人の間で発砲事件を始とする暴動があった。 1995年1月17日午前5時17分、阪神大震災。死者約6400人。第一報が村山首 相に入ったのが発生110分後。行政経験もなく、それを知ってもなすすべがなかっ た。会議を開き、最高責任者は国土庁長官になった。自衛隊のへりは社会党は自衛隊 反対の見地から出動がすぐできず、航空法で民間のヘリも着地できない。世界で3番 目にヘリを保有しているというのにヘリでの救出は20人に満たない。病院は怪我の 重度でなく、到着が早い者順の治療となった。圧死、窒息死。そういえば、外国から の救助犬も検疫か何かにひっかかってたっけ。総理は、当日「新春文化人懇談会」に 出席して時間オーバーするほどに歓談していた。 しかしながら世界が感心したのは、人々の落ち着き振りであった。火事場泥棒の少なさ、 暴動どころか、助け合い、コミュニティが自然発生的にできあがっていった。 当時の日本銀行神戸支店長は英断した。 どうせ義捐金が入ってくるからと、金庫にあった現金を全部持ち出し、一番被害のすくなかった 銀行に持ち込み、彼の責任において支店を開き、お金は十分にあることを伝えた。お金は、 通帳がなくても払い戻し可能、ハンコなくても母音OK、定期の解約は即OK,焼けた金は即 交換など、パニックを回避したのであった。確かにそうであった。私も、心理的に、安心感を 覚えた記憶がある。 これは関東大震災の教訓だという。 このすべて反対のことをした関東大震災ではこれも要因のひとつとなり暴動や略奪が起こった。 また400万円分の小銭を用意して、自動販売機等で使ってくださいと無償でばらまいたにも かかわらず、半数近くの人々が、紙幣を差し出して両替対応したという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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