ファランポン中央駅
初めてのバンコク
ドンムアン国際空港から4駅。よく荷物を預けた駅。北や南方面にいつも出発していた駅。やることもなく、駅に行き、やることもなく、新聞をあぐらをかいて読んでいるタイ女性をポカンと見ていた駅。ノーンカイまで切符を買って、何だか何もかも嫌になって10分間迷って、キャンセルして、チェンマイ行きに変更し、手数料取られた駅。トイレが有料だった駅。ビーチに行くッスラッタニーに行くのに、楽宮に忘れ物をしたことを思い出し、走って取りに戻り、列車が動き出したのに飛び乗った駅。一度だけ奮発して乗った2等エアコン寝台車。駅前の屋台で何度もタイアイスコーヒーを飲んだ。駅前の店で、とても気に入った花柄のジーンズをキツキツなのに、無理に買って、いつも、おなかを凹ませて履いていた。詐欺に誘われて、危うく全財産を取られそうになった駅・・・
楽宮旅社
いずれこんことは詳しく書き直しておきたいと思いつつ、楽宮ホテルは淫猥であった。ホテルにはホテル付の娼婦がうろうろしていて、チャックインすると、すぐノックがあり、大変、うっとうしいホテルであった。81年に出版された谷恒星の「バンコク楽宮ホテル」は、小説仕上げだが、実際のことも良く描かれていたが、当時は非難の対象であった。私が初めて行ったときは、まだ地球の歩き方がアメリカ、ヨーロッパ、インドしかなくて、中国が出た頃で、翌年、タイが出たときは、このホテルもしっかり紹介されていた。今は、もうないかもしれないし、何だか、本当に寂れていた。多分外から見ると、つぶれているようだ。ファランポーン駅横のスリクロンホテルは、よくこれまた冷房を取るだけのために、アイスコーヒーを何百回も飲んだんだなあ。
だいたい、このあたりを歩いてみたが、もう、日本人らしき旅行者も誰もいなかった。もう日本人の溜まり場がなくなり、皆、カンボジアやカオサンに移っていったという噂である。ロータリー前には、なんと、BMWのショーウインドウが・・・時代は変わったな。
スワニー食堂
このおじさんはまだ座っていた。
もう誰も入っていない。きっとスワニーさんも、もう50歳超えてるんだろうなあ・・・シミジミ。
7月22日ロータリー噴水とジュライホテル
この噴水の前では、娼婦に卵をおごってもらった懐かしい経験があるが、やはり、
タケテイサンや
ホウロウサンにも懐かしい思い出がある場所である。
前の屋台で、いつも飯を食っていた。変な日本人もうろうろしていたが、今考えたら、私も変だったのかもしれない。頭に包帯をした日本人おっさんがやってきて、そこで頭を棒で殴られて、意識失っている間に財布取られましたよ。といっていたが、「へえ。あ、っそう」なんて感覚も鈍っていたような気がする。
台北旅社
かろうじてここだけが、まだやってるようだ。
チャイナタウン。何度ここをさまよったことであろうか。棺おけ屋の横にひよこ屋の横に棺おけ屋の横にひよこ屋・・・泥棒市、金行。なんだか、懐かしシリーズ・・・だったわ。
まとめ、解説。
1970年代、ベトナム戦争・・・日本の若者もたいていは北海道なんかに向かったかに族であったが、一部の人間はアジア方面にも流れ、いわゆるヒッピー、ヒッピー崩れで、旅行期間は年単位の人も多かったに違いない。あの深夜特急もチャイナタウン、ファランポーン駅周辺に宿をとったのであろう。当時は、1ドル250円の時代である。この人たちは、本当に金がなかったのであろうし、本当のビンボウ旅行者だったのであろう。
海外旅行が爆発したのは、1985年のプラザ合意以降の円高からであろう。私も、初めて行ったときは1ドル220円であったが、2回目以降はプラザ合意以降で、急激な円高になっていったのであった。私は、この1派に属する。たまたま、それが、学生になった年だったからに過ぎないが。
80年代、宿泊施設としては、日本人にとっては、このチャイナタウン、そしてマレーシアホテル周辺、そして、少し値は張るがスクンビット周辺にもあった。マレーシアホテル周辺では、安チケットが売られており、当時、世界でもバンコクと香港が世界の安チケットのメッカであり、多くの人がこの2都市をベース地としていた。HISがまだ秀インターナショナルの頃、タイに行くのに、往復8万円とか10万円とかしたのであった。それも、決まって東京からパキスタン航空かエジプト航空。ついに、その後、イラク航空、トルコ航空と出てきたのではあるが。
それに、インドに行くときに1泊だけするときは、スクンビットのアトランタホテル、マイアミホテルなど、ちょとだけ奮発して泊まったものであった。何せ1500円ぐらいでプールがついていたのだからちょい豪華な気分に浸れたわけなのである。働いてからも、アトランタホテル、クラウンホテルなどにはお世話になった。
マレーシアホテル周辺は部屋が狭く、やっぱりチャイナタウンのジュライホテルであった。何せ安宿のくせに、毎日シーツは換えてくれる、部屋が広い、屋上に行ける、3階に安食堂がある、1階に夜になると屋台がいっぱいでる、人によっては、周りに売春宿や麻薬屋がはびこっているというなかなかなところだったのである。すぐチクル伊藤四郎従業員とか、小遣い稼ぎの麻薬関係摘発警官などもはびこってはいたのだが。
そして、そうしようもない北京飯店、ではなく、どうしようもない北京飯店にはびこる日本人たち・・・しかし、チャイナタウンの明るい時代であったことは確かであった。
明日は、パート2カオサン編である。まあ、いわばゴッドファッキンファーザーパート2のようなものである。誰も楽しみにしていない(ホウロウさん以外)
ともかく、確実にいえることは、当時の私は、20年もたてば、私も、まともな大人になるものだと思っていたことぐらいである。
二〇〇七年夏
メキシコ行き失敗
メキシコ行き失2敗
サンフランシス1コ
サンフランシスコ2
サンフランシスコ3
サンフランシスコ4
サンフランシスコ→成田→バンコク
矯正博物館
バンコク原点序章1
バンコク原点序章2
歓楽街にて コンドムレストラン
クルンテープにて
1985年のロンリープラネット
1987年バンコクから南下