20年程前、霧の中、少し肌寒い季節、3ヶ月程度のアジアの旅から帰ってきた秋に高野山に行った。
高野山には、老杉の中に20万とも30万とも言われる有名無名の墓がある。日本の場合、家族や一族で墓に入ることを考えれば、おおよそ100万人は葬られている死者の町なのである。何せ高野山の生きている人口は4~5000人である。正しく死者の都市である。
人類というのは、諸説があるが、二本足で立ってから死んだ人口が、今と生きている人口と同じ60億人程度から2、300億人程度という幅があるとしても、それでも、2~300億人である。
ほんの2,300年前、産業革命で爆発的に増えた人口も世界人口は10億人それまで農耕の始まった頃の1万年前といえば、1億人、キリスト生まれた頃で、2億から3億人、そして戦後20億人、わずか50年で60億人・・・
20年前、私は、アジアの旅に出た頃である。旅とは恥ずかしい言い方ではあるが、何度か書いたように、当時感化されるような書物はそう多くなかった。
インド本で文庫本になったのは10冊もなかったと思う。その中で藤原新也氏の「全東洋街道」の日本の終着点に高野山があった。
学生当時、日本国内の旅行は高くて、そうそうできるものではなかった。しかし、私は、かぶれていた精神を発揮し、テントを持ち、高野山に行った。
高野山は、900メートルのところからいきなり盆地になり、その盆地に、山々が重なり、地形的に、空海が彗眼で撰んだだけある、特殊な地形である。蓮が咲いているような形なのである。
20年前は、金はなくとも、学校をサボる限り時間があった。他の学生同様インチキな学生だったのである。
日本の大学生の特徴は、その人生上あまり多くない、その若くて自由な時間にあるのであって、勉強が好きなら勉強してもいいが、何もしたくなかったら何もしなくていいとう、そういう意味では世界まれなる一般平民が味わえる素晴らしい時間帯だったのであった。
高野山の麓から歩いて登り、それゆえ、地形的なものがよく分からないまま、どこだか分からない宿坊の近くの森で、テントを置き、不法に寝たのであった。平日だったからかも知れないし、世界遺産でもなかったので、人はほとんどいたような記憶はないし、墓と杉の中の済んだ空気の中、深山を歩いた記憶しか残されてなかった。
街の記憶はなく、金剛峰寺の国宝の屏風は見たのだが、今回、こんなに大きな寺だったということは記憶にない。
私は、この日記を書くに当たって、暫く、前東洋街道の本を10分近く費やし、探し出した。この本からの私の忘れえぬ2つのフレーズ、人間は肉でしょ、気持ちイッパイあるでしょ・・・・と、もうひとつ、高野山の最後のフレーズ、旅はバイブルである・・・そのフレーズがなかったのである。
20年間、ずっとずっと、最終章最後のページに書かれていると思っていたのに、それはなかった。あったのは、人は生きていくのにいくつかの節目があるように、旅の氷点があるということだった。すっかり私は忘れていた、というより、どこかで何かとすり替えされていたのであった。
どのあたりに泊まり、どのあたりを歩きという記憶は失い、総本山奥の院でさえ、行った覚えがなかった。
あったのは、その墓場の参道だけであった。皇族公家に大名、戦国大名に至っては6割以上、それは20年前も気がついたのであった。そして、私は、死者の病に冒されるかのごとく、眠れなかったことだけであった。
その夜、私は、買い込んだバーボン、アーリータイムスを1本空けたことだけは覚えている。そして、ほとんど眠らなかったことも覚えている。
参道以外は金剛峰寺に行ったことだけは覚えているが、その他は何も覚えていない。私は、浮かれていたのだ。多分。
帰りの電車の中、揺られながら、私は、大いに眠ったことは覚えており、すぐに、大阪に着いたような気がする。
とにかく、高野山に行った頃、若気の至りというほどのハイな状態だった。ハイになりすぎると、落ち込むことを知ったが、学生時代は、自分を突き詰めたり理詰めで固めてしまうほど時間があったのだ。何だかそんなことを思い出し、今、苦笑いしている。
それにしても、弘法大師は、日本のスーパースターであることを改めて感じるのであった。
高野山
ケーブルカーで高野山へ
企業のお墓
どこかポンチな高野山
金剛峯寺
ビルマ寺
おまけ 宗教都市天理
おまけ 生駒宝山寺
おまけ 生駒宝山寺2