国立博物館にて
「別れた人に会った、別れた渋谷で会った、別れた日と同じ服だった~」、と私の頭の中に何故か曲が流れた。
カンボジアは農業国である。カンボジアの現在の農地所有形態は知らない。
代わりに、江戸時代の農村のことをまとめておこう。ヨーロッパで農民といえば、はっきり言って農奴であったのに対し、鎖国時代の日本の農民は、貴族や地主に打撲され常に収穫を上げろとムチでったかれ、わらの上で寝て何の教育も施されなかったわけではなく、庄屋や地主の横暴の犠牲になるということはほとんどなかった。一応、地位も、士農工商と2番目に位置していた。
そのことは、ヨーロッパに行けば、あの豪華絢爛な歴史的建造物の多さを見れば、どんなけ富が一部に集中していたかということが分かるのである。綺麗だな、頑丈だな、スゴイナ、とノー天気に感動するという前には、こういった農奴の犠牲の上に成り立っているということを忘れてはなるまい。
日本では、ちゃんと田が測量され、その年の気候にもあわせて納税が決まるが、なんといっても、農民の寄り合いの方でも、お上と協議できるというシステムがあったのであり、一方的に搾り取られるというわけではなかったのであった。(当然、交渉決裂もあっただろうし、3度の大飢饉では随分交渉は決裂した)。また農民にがんばってもらうために、自分たちで新たに開拓した土地については15年間無税とうモチベーションも与えられていた。そのため、農耕技術だけでなく、農民は測量技術、治水技術、堤防工事技術などを持つものも多かったので、読み書き、そろばんのできる農民は必然的に多かったのである。いわゆる寺小屋である。
日本史の教科書では、毎年のように農民一揆があったようになっているが、一揆の中身が、話し合いに直訴しにいっても一応一揆に数えられている。欧米では、日本なんか革命を起こす勇気も気力もなかったヨワッチイ奴らだと思っているかもしれないが、そもそも、容赦ない弾圧がなかったり自由を求める必要性もなかったので、革命など起こす必要がなかったのだが、それは、農民の待遇のせいでもあろう。また欧米列国に対して、明治政府が、わいらもこんなけ一揆とか暴動とかいっぱいあったんじゃと誇示したかっただけかもしれない。
ドイツでは、あのルターも、キリスト教の自由を高らかに宣言して、農民の蜂起を煽っておきながら、最終権力者にもいい顔をして農民を見放した。そして裏切られた農民は殺され、更に農奴制が強化されてしまう羽目になったのである。日本も暴動を起こせば首謀者は当然死刑にされたが、国民的英雄となり、芝居でその人生が上映されたりもした。
日本の農民が農奴ではなかったのは、実質的に田には縛られるが、旅行は自由だったということであり、代表は伊勢神宮参りであるが、結構、どこへでも神社仏閣の参拝にでかけ、ついでに他の土地の農業視察を多く兼ねていたので、技術も、なかなか日本均一的になっていたのであった。旅行者数も莫大であり、総人口の3分の1が出かけた年もあったという。東海道は、本当に、歩く人で渋滞するぐらいの人の多さだったようである。
概して、日本は農民だけでなく、侍も幕府も、概ね、総貧乏だった。広く富が分配され、広く貧乏であった。そこに文明開化の波が押し寄せた。
農地解放が、ヨーロッパに習って施行された。ヨーロッパでは、大地主階級がいて、その闘争で血みどろの戦いが繰り返されてきたが、日本は、そもそも大名でさえ、土地は将軍から管理を任されていただけであったし、侍は、せいぜい自分の家しか持っておらず、農地をもっているということはなかった。農民も賃貸でしかなかった。土地を所有しているという概念がなかったのだ。あえていえば、村の所有であり、国家の所有であり、土地を独占的に持つことは禁止されていたのであった。土地が、自由に売買できるものと定義すれば、誰も農地の土地所有者がいなかったのであった。
そんな訳で農地解放、といっても誰も土地を取り上げられるものはいなかったので、対抗する勢力もなく、すんなり解放された。すんなり解放されて、農民に分け与えられたとき、そのかつてのシステムは崩れ、逆に土地を買い占めるものや法人によって投機の対象となってしまったんであった。大地主が出現したのであっ。やがて、農地の半分が大地主のものとなっていた、第二次世界大戦後、やっと、また財閥解体などとともに、農地解放されたのであった。まるでマッチポンプである。
そんなことを息巻いていってみたが、カンボジアとあまり、というか全然関係ないのであった。カンボジアでは、内戦で土地を全部ポルポトと取り上げられて以来、1980年代にやっと農地分配がなされたようであった。