駅で電車を待つ。この駅は、海水浴場まで駅から0歩という近さ。(階段を下りると、砂)
駅前のしろちゃん、高校のとき、何度もお世話になったが、うまかったかとか、どんなメニューがあったかとかは覚えていない。駅を降りると、いきなり魚屋なのでが、まだ健在であった。
夜中、塾の帰りに、インベーダーゲームを100円だけ、よくした喫茶店はなくなっている。
同級生の友達(あだ名、シモカツトンカツ)の米屋はなくなっておった。
豆腐屋のおちゃんは、まだ居た。この人は、いつも、片手を車外に出し鐘を鳴らしながら町中を売り走っていた人なので、地元では、多分、有名人だろう。
散髪屋はあった。働いてから1度行くと、ちょうど死の山寄進撮影宮沢理恵のサンタフェが出版されたときで、おさんが、後ろでうわ、とかおおっとか言っていて、散髪されている私は振り向いて覗き込むことができなくて、ほんのチョッピリ悔しい思いをしたのだが、まだあった。
黄色枠のおじさんは、関西でも有名な画家なのでが、毎日、昼間から公園でプラプラしているおっさんだったので、この人はなんだろう、と子供心に思っていたものだ。
水色枠は、昔病院で、妹が生まれたところ。もしかして、隣だったかもしれないが、妹生まれたぞと、この前で車の中で聞かされた記憶が多分一番古い記憶のひとつ(3歳)
あの橋の下で遊んでいるところを友達(あだ名キノピー)の親父に見つかり、翌日キノピーに、おまえらと今後遊ぶなと親父に言われたわ、と言われた。
黄色枠、オープンした時のコロッケ30円、30年後の今日70円であった。
水色枠、寿司屋であったが、初めて、行った寿司屋であったが、私に説教を垂れたからであろうか、今はもうない。
釣具店もなくなっていた。息子がオウムに入って家庭崩壊したという噂を聞いてはいたが・・・
20歳の頃、中学同級生で、一番早く亡くなってしまった子の家はもうない。
インドから帰ってきた日、もう、便意をもよおし、どうしようもなくなった場所。
小学校の時は、まっすぐ家に帰らず、道が有れば、その先どうなってんだろうと、どこにでも、道草していったものだわ。
母校の小学校だが、黄色枠の建物はまだなかった。小学校1年のときに開校100周年。あの建物の場所には100周年を記念して、ジャイアントスライダーと呼ばれる滑り台が設置されたのだが、潰されたのだな。
小学校運動場の横の黄色枠部分は、昔、養鶏場であった。そのため運動場は臭かった。そして、野球などしたらボールが養鶏場に飛んでいく、そのたびに臭い思いをして取りに行くので、誰も本気でかっ飛ばすことができなかった次第であった。
黄色枠は喫茶店だったのだが、なくなっておる。
水色枠のところに、プールがあったのですが、なくなってます。
黄色枠はサンヨーの研究所であり、一度火事になった。水色枠のところには明治時代西洋人たちの別荘の立ち並んでいたジエームズ山。
おお、まだ残っていた、小学校の蜂の巣校舎。小学校2年~4年を過ごした陰気な校舎。
上のマンションに住んでいた友達(あだ名ウラッコ)が、犬が自分のしたウンコを食べてるのを目撃した階段。
小学校の前の家に住むおばあちゃんの家が、幽霊屋敷だという噂が広まり、大挙して押しかけて、翌日学校にクレームが入り、全体集会で怒られた次第。
私の通った幼稚園。当時は、普通、皆、送り迎えはなく、皆、勝手に幼稚園に来て、適当に帰っていた。
私の通った幼稚園。先生とは何故か年賀状のやり取りが続く。
当時から寂れ気味だった中野センター。
ここに、相模スキンの自動販売機がり、友達(あだ名ジュリー)と、コレ何の自動販売機やろと、話し合っており、道行く人がチラチラ見ながら通り過ぎて言ったのであった。
もう3軒しか入っていなかった。
ネコも入れない
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