中国のニーハオトイレは全国津々浦々公衆トイレとしてあまねく存在していたが、昨今は観光地などには有料でそれなりにきれいな個室トイレもできていて、ニーハオトイレはおそらく減少傾向にあるかと思われる。現状はよく分からないが、それでも田舎町や旧市街地、駅などの共同トイレはニーハオトイレが生き残っているんじゃなかろうか。まず誤解して欲しくないのだが、「ニーハオトイレ=汚いトイレ」ではない。
掃除の行き届いた清潔なニーハオトイレというものも案外多い。ニーハオ状況があまりにも衝撃でトイレも汚いように感じてしまうのかもしれないが、水洗式ニーハオトイレ(後述)などは日本の手入れの悪い公衆便所よりもきれいだったりする。
衛生とは何か、美的感覚とはなにか、知らなかったら良かったものとは何か、最終的に人間の尊厳とは何か。
初めてのニーハオトイレ体験は、忘れもしない80年代後半。留学生として中国東北の町で暮らし始めて1か月、大学の外国人担当部署が企画した小旅行に出かけるために駅に行った時だった。
駅のトイレ(男女別だ、もちろん)に入ると、トイレ部分が一段高くなっていて、正面右から左に向かって軽く傾斜した幅30cm深さ50cmほどの溝が1本、どーんと10mぐらいの長さで横たわっている。その溝をまたいで用を足す、という仕組み。人1人分ぐらいの幅ごとに50cmほどの低い間仕切りがあるが、もちろんドアも壁も何も無い。だもんで、トイレに入ると溝をまたいでしゃがむ人たちの横向きの姿が自動的に目に入る。
トイレスペースは白い大きなタイル張りで、水がびしゃびしゃした感じはするが臭いも少なくそれほど汚い感じは無かったのが幸いだった。
入口に服務員がいて、紙を売っているのだが、確かにざらざらのもの、それを1人1枚である。そして、臭いを誤魔化すためか、分からないが、ウンコ待ちしている人々の多くが、タバコを無意味に吸っていた。
細い溝を前でシャガンデイルやつらのウンチが流れてくるのを、吐きそうになりながら一度は眺め、目をつぶるのふぁが、ふと、目を開けると、生まれて初めて、他人の大人の人間の尻からウンコが出てくるのをみた。再び私は哲学者モードとなり、人間の哀れみや無常さを感じたのであった。ほんの僅かな時間であったが、そうそうに切り上げたく、入口でザラバン紙買わずに、日本から持ってきたポケットテッシュを駆使して何回も何枚も使って尻を拭いていると、気がつけば10人以上のウンコしつつある中国人の注目の的になってしまった。あまり死にたいと思わない私も、さすがに恥ずかしくて死にたくなった。
覚悟はしていたものの隠れようの無いトイレにはもちろん動揺した。しかしトイレはこれしかない。溝をまたぐ人たちをしばし眺め、先頭部と最後尾にスペースがあるのを確認した。
心理的負担は最後尾の方が軽かろう、と判断し、よっこらしょ、と溝をまたぐ。
いったん決心すれば、というか他にどうにもならないのでここで無駄に躊躇するとかえって不審に思われる。何気なく用を足したのだが、この溝式トイレ、一定の時間ごとに右から結構な勢いの水が流れてくる。この水が溝に落ちている諸々を押し流し(ただしトイレで使った紙はスペース毎に置かれているくずかごに入れる。当時の中国人はトイレットペーパーよりも雑誌とかノートの切れっぱしなど反古をよく使っていたので、流すことはできなかった。もちろん尻のヤワな日本人はトイレットペーパーを万難を排して入手していたが、これもくずかごに入れる)、溝が一気にきれいになる。
それと、チベットでは、あんなけ360度何もない草原なのに、山の中腹にトイレがあって、バス休憩に入ると、確かに穴がもともと、あった、が、しかし、其の穴から、円錐状のウンチが盛り上がっているのであった。そして、中国人はほぼ立っている状態か、せいぜい中腰で、其の上からウンコをしているのである。なんせしゃがむと、ウンコにしりが当たるのである。
おそらく、冬場にカチンコチンに凍ったウンコを一気に処理するのではないかと邪推したのだが、これでは、私とて、反立ちでウンコはしたこともなく、下手すれば尻に他人のウンコがつくだけではなく、足場もはっきり言って結構ウンコ状態である。
すぐさま、トイレから出て草原でゆっくりウンコをしたことはいうまでもない。