ボルネオ島のゴムボートによる川下りが終わって、一人は、ブルネイに行き、残り3人はクアラルンプル経由コサムイ経由でバンコクに戻って来た。
3人のうち私と後輩Yは明後日から社会人である。(Yは某凹板印刷に入社し、そして、半年で仕事が嫌になり、辞め、写真事務所の弟子となり、今は、生活に怯えながらも、かなりのんびりした生活、しかし、仕事がある日は徹夜。この前、仕事を発注した。高校大学同級生で仕事をしたのは心斎橋ワタル(の会社)以来2回目である。実は結構感慨深かったけど、ほんまにこいつがいい写真とってくれるのかすごく不安であり、社内外で、写真いまいちといわれたら自分が非難されている気分になるから、冷や冷やものである。でも彼は、渋い写真を撮り、評判は良くて、身内のごとく安心した。学生最後の夜を過ごしたことを今思い出したんだ。)
帰国2日前、もう一人のOが第二次自己破産宣告し、金が尽きたといった。翌日、入社式が東京であるという副隊長Y宿代を払わずして帰国。最後は、ビールを飲みながら彼に、土産のクロングテップタバコ1箱を持たせる。
彼の時世の言葉「やけに金のない旅でししたね。やけに区切りのない旅でしたね。何本作ったのですか?」
ぼろいベッドの上で彼はいい、私は「こんな犯罪的自由な時間は終わりなんだな。次は40年後だぜ、最後、こんなこともいうのもなんだが、おれたち今、センチメンタリズム状態だな、ははは」と力弱く嘯いた。(彼は半年後に仕事辞める)そして、金がないはずなのに、彼はタクシーでドンムアン空港に向かった夜であった。カオサンロードでさえ、まだ土の臭いがした。夜は、さすがに暗かった。コンクリートの地面がまっすぐではないので、テーブルや椅子が安定せず、ビール瓶が倒れない程度にカタカタ鳴った。
そして私の金も尽きる。部屋代と空港税その他諸々の金額を捻出するために行商を始める。ウオークマン等売却、ベルト売却、とか日本に帰る人にテレホンカード売却とか、ランボーの「地獄の季節」を25円で売ったりしてとにかく宿代をウオークマン代で、食費で300円(=60バーツ)作ったんだ。
おまけに、このバカOがカオサンでベラベラ若い奴ら(ってもオレ22歳だけど、バンコク14回目ははは)に話するから、知らない奴らが部屋にやってくる。うっといすいいので、ワットアルン、暁の寺が見えるチャオプラヤー川沿いに突き出た川床でビールを飲みに行く。
空港税の足りないまま、35キロのボートを市バスに乗せ、空港に向かい、ビール飲んだり変なものに金使わなければ済んだのにってのは無視して、空港で日本人捕まえて空港税稼ぐために物々行商して、空港税値切れないか交渉して・・・滑稽だが、あのときは必死こいてやってた。
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