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演奏している自分の中に、
それを客観的に見ているもう一人の自分がいる。 自分の演奏にのめり込めばのめり込むほど、 もう一人の自分の存在が無くなっていく。 逆に、客観的に見ている自分が大きすぎれば、 冷静ではあるが面白みの無い演奏になる。 鼓組のオーディションでは、 耳タコの 「左」(左右のバランスを整えるために左手をきっちり打つ) これを意識するのは良いが、 オーディションでこればかり意識しているのはレベルが低い。 こんな基本的なことは、無意識にできるまで稽古しているのが常識。 例えば演劇のセリフは観客に聞こえるように喋れなくては意味が無い。 でもそれは当たり前のことで、もっと大事なことは そのセリフをどう表現するか? そのセリフを表現する時の心の状態、体の状態をいかに作るか? 同じように、リズムを正確に叩くのは当たり前で、大事なことは そのパートを、リズムをどう表現するか? ・・・ 年々、基本的な技術のレベルは上がっている。 「左~~!」なんて言われて落とされるメンバーは上級生ではほとんどいない。 それだけに、誰もが同じような演奏に陥り、優等生的な演奏が大半を占める。 下級生には、荒いが、面白い表現をする者が多い。 基本的なことは置いておいて、観ていて楽しい。 正確さよりも見た目の表現を要求される曲の場合は、 ある程度のバランスを保っていれば、表現の豊かな者が選ばれる。 大太鼓ソロなどの場合は、まわりを無視するほどの自己チュー的な演奏が 必要とされる。 センターに配置されたリーダー的パートの場合も似たものだが、 他のメンバーを力ずくでも引っ張るカリスマ性が欲しい。 最後方で、メンバーを把握しながらアンサンブルを支配し、 一たびソロとなれば火を吹くような・・・ 三宅や締太鼓の揃い打ちなど、同じ楽器のアンサンブルであれば、 より客観性の高いメンバー、まわりが見え・聞こえ、 全体の中で自分を生かせる者が求められるだろう。 「もう一人の自分」が、自分自身をどう演出し、どうプロデュースするか、 オーディションはまだ始まったばかりだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年02月13日 22時08分53秒
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