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●人間養成としての教育の一部である<しつけ>について
ヒトは、人間になる過程で、<しつけ>に失敗している場合には、 いつまでも、あらゆる刺激を楽しむことができてしまう。
この無謀な野放し子育て状態を、自然保育と呼んでいるサークルがある。
時折目にする、前衛的な<自然>派お母さん集団なのだが、 異常に幼稚な理論と極めて少ない検証しか持たないご都合主義サークルです。
自分の子供を、人間社会という環境に適応できないように育ててしまっています。
どんなものでも、単なる「刺激に対する反応」なのだから、そこには、 善悪もなければ、常識も良識もない。<自然>とはそういうことです。
ただし、人間を目指すのであれば、そこには、自然に反する人間への道が要求されます。 ヒトが人間になるためには、その過程で教育を受け、<しつけ>として、人間であるための条件を組み込まれる必要があるのです。
一昔前までは、この<しつけ>は、家庭外教育環境で十分に育っていました。 ですから、そんな時代には、放任主義もまた、健全な子育ての1派であることが出来ました。 しかしながら、この<しつけ>が、無意識には機能しない社会になった現代では、 この放任主義は、ネグレクト(子供不在:子供無視)という虐待と同等の位置づけとなることが多くなりました。
このような社会が来るとは誰も予測していませんでした。 ですから、今なお、その社会が教育してくれていた多くのものがあったことにさえ、 今だに気づいてさえいないのです。かつてあったものが、全くない世界に変化したことを知らないのです。それなのに、その消え去ったものがあることを前提に、話を進めている。これでは、いつまでたっても改善しないのは当たり前です。
◎現代は、 家庭で、 人間であることができるための
<しつけ>を、
意識的に しなければならなく なっているのです。
そう思って、 <しつけ>をしている親が どれほどいるだろうか。
学校や地域やメディアという社会環境が、 <しつけ>を放棄している(今や真逆のことを煽っている)現代では、 ここに気づいていない家庭では、 いつ何時、殺人さえも娯楽の対象とする子供になるかは、 偶然に委ねられていることになる。
イジメの娯楽化(卑怯者という通念の消失) 万引の娯楽化(ゲームのつもり) 法律違反の娯楽(自己顕示欲:存在証明) 窃盗の娯楽化 強盗の娯楽化 殺人の娯楽化
*2015年現在、もう既に、とっくの昔に、 最後の砦であった「人間であるための布石」さえも、娯楽になっていることは、 あらゆるニュースで証明済みです。これを否定することは不可能です。 この時代を生きていることを忘れないようにして、
幼児・児童期の教育を見なければ、
教育は、必ず失敗します。
そして、教育を成功させるには、 家庭教育に健全な教育理論が必要なのです。
11-12歳(一般的には女子が早い)は、思考回路養成の最後の仕上げをする(リミット期)時期です。
この時期を、パターン学習の高速再現に浪費する受験勉強を「良し」とする教育者がいるとすれば、世も末です。 するなとは言いません。するなら、するで、健全な準備をして下さい。可能な方法はあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年04月28日 12時24分08秒
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