「巷説百物語」シリーズや「覘き小平次」に先行する,
京極夏彦の「嗤う伊右衛門」(1997)
を読んだ。
エコロジーや薬品アレルギーの観点から見直されているとはいえ,最近めったに(というか全然)見ることのなくなった「蚊帳」(→
蚊帳の博物館)が実に効果的に使われている作品である。
蚊から身を守ってくれるはずの蚊帳だが,いったん蚊が紛れ込んでしまうと,その中の人間は蚊のエサになってしまう(笑) そのときの「恐怖」と羽音を聞かされ続ける「苛立ち」は経験してみないとわからないかもしれないが,冒頭の伊右衛門と直助の会話の後半には,その状況が実に巧みに使われている。
蚊帳は「結界」でもある。その中から見た風景は通常よりぼんやりとして見え,伊右衛門は嫌いなようだが,何かの内側にいるという安心感を与え,外から見た蚊帳の中は「一まとまりの世界」であり,そのことから
「蚊帳の外」という言葉も生まれてくる。
蚊が紛れ込むのは「破れ穴」からだけではない。蚊帳の出入りには蚊を入れないための作法があり,小さい頃,大きく広げて出入りしては叱られたことを思い出す。
この作法を守らずに「結界」に入ろうとする無礼な侵入者は排除されなければならず,そのような意味合いで,「民谷家の惨劇」において伊東喜兵衛は伊右衛門に斬られたのだ……
そして最後には,蚊帳の結界に守られた伊右衛門と岩の「愛の形」が明らかにされる。
ここに書かれているのは,お岩の亡霊で知られる「東海道四谷怪談」(関連して書いた日記は
→こちらから)と(中公文庫版解説によると「怪談」の種本である)「四谷雑談集」(関連して書いた日記は
→こちらから)を素材に京極夏彦が創り上げた,歪んだラブストーリーの世界といっていいだろう。
「巷説百物語」のシリーズや「覘き小平次」(表には出てこない)の中心人物である御行の又市が初めて登場する作品でもある。
「四谷雑談集」に出てくる「小股潜りの又市」を京極夏彦がここで主要キャラクターとして採用したことが,その後の「巷説百物語」のシリーズのきっかけとなったのかもしれない。
ということもあり,ここでの又市はそれ以降の又市と若干異なっている。
彼特有の緻密な仕掛けがないし,「まとめ」はするものの結果的には後手,後手にまわることになり,「かっこいい」ことに変わりはないが,事態は彼の手を離れたところで進んでいく。
その意味でやはりこれは伊右衛門と岩を中心として,そのまわりの人々をも含めた「愛」の物語であるといえるだろう。
生真面目,寡黙で,剣の腕が立つのにそれをひけらかすこともない伊右衛門と民谷家の娘であることに矜持を持つ岩だが,お互いを想いあっているにもかかわらず,口から出てくるのは相手への罵詈雑言で,隣家へも届くほどの仲違い。
岩は伊右衛門のことを思って民谷家を出,伊右衛門は岩の戻る「家」のために梅と再婚する。
この「歪み」が四谷左門町の亡霊騒ぎと「民谷家の惨劇」につながっていくのだが,「歪んだ愛」はそれだけではない。
民谷又左衛門の,
毒を与えて顔を醜くしてまでも婚姻をさせたくない岩への愛,
梅の,
子供を殺しまでした伊右衛門への思い込みの愛,
直助の,
彼女を首吊りさせることになった袖への愛,
伊東喜兵衛のお梅への天邪鬼な愛,
など盛りだくさんで,物語に独特の陰影を与えている。
PS
「覘き小平次」(日記は
→こちらから)は,薬売り孫平の子となった小平の骸が見つかってから1年後の話となっている。
秋山長右衛門の死体とともに見つかった白骨が小平のもので,「孫平・小平」が共通の人物だとしたら,「覘き小平次」の話は民谷家の惨劇の1年後となるのだが,どうだろう?
→
その2(「四谷雑談集」の日記)
→
その3(「東海道四谷怪談」の日記)
時代・場所,登場人物をフリーページの京極夏彦メモ(嗤う伊右衛門)に簡単にまとめてありますので,ごらんください。
京極夏彦の他作品についての日記は,フリーページ 読了本(日本) (京極夏彦)からごらんください。
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2007/06/03 12:51:46 AM