2002年桜の花が咲く頃、40歳まであと数年だった私は仕事に追われる日々の生活に疑問を感じ仕事を辞める決心をした。
とはいうものの、約11年間働き、それなりに意義を感じていた仕事にも多少の未練はあった。また、いざ辞めるとなると、今後どうやって食べていくのかとか、これから納得のいく仕事を得られるのかといったように今後の人生についても不安を覚えていた。しかし、「今のままではダメなんだ!」と自分自身に言い聞かせ上司に辞める旨を伝えた。
退職届けを提出してからは、それまであった多少の迷いも消え気持ちがすっきりした。そのせいか以前だったらイラついていた仕事上の些細なトラブルも寛容に受け止めることができ、「これまで色々とつまらぬことに振り回されていたのだな」と改めて気づいた。そして周囲の人達にもいろいろと迷惑をかけていたに違いない。そんなことを思うと我ながら恥ずかしさすら覚えた。
まあ、今更あれこれ悔やんだところで仕方がない。あとは残りの期間きちんと仕事の引継ぎを行い、職場及び取引先に迷惑をかけないことだと肝に命じたのだった。
さて、会社を辞めてその後一体何をするのか?
その時の私にはその問いに対する明確な答えを持ち合わせていなかった。毎日同じようなことの繰り返しで、昨日と今日の区別さえはっきりとしない、そんな現実から単に逃げようとしていただけなのかもしれない。
そんな私の頭にふと浮かんだことは、「とりあえず旅に出てみよう」、ただそれだけだった。
旅をするには一応目的地が必要だ。ではどこへ行こうか?
以前訪れた場所や行ってみたい所をあれこれ頭に思い浮かべ、そしてマダガスカルで思考が止まった。うん、悪くない。会社を辞めて旅する価値がありそうな所だ。そもそもマダガスカルは地理的にも時間的にも日本から遠い地なので、この機会を逃すと次はいつ行くことが出来るかわからない。また、会社を辞める理由を他人から聞かれた時にも、「マダガスカルへ行くんです」と言えば何となく相手が納得しそうにも思えた。
ゴールデンウィークが明けてまもなく、これまで働いた職場に別れを告げ、借りていた部屋も引き払い、北海道の実家に家財道具を全て送った。実家には1週間ほど滞在し旅に持っていくものを準備したり、住民票の実家への転入届と海外への転出届等の諸手続きを済ませた。
そしてサッカーのワールドカップ日本・韓国大会の開会式の数日後、まず東京へ向けて実家を発った。
東京ではトラベラーズチェック(T/C)を発行してもらったり、旅行に必要なアイテムを揃えたり(短波ラジオ、コンパクト双眼鏡、デジカメのメモリーカード等)と連日忙しい。そして、夜には友人との飲み会が待っている。久々に会う学生時代の友人や以前の職場の同僚と飲んだりして旧交をあたためた。
彼らと話していている最中、ふと、「あー、これで私は彼らとは別の道に進むことになるのだな」と実感し、今後の自分の人生に不安を覚えたりした。やはり、今後のことを思うと迷いがないというのは嘘になる。でも、あのまま仕事を続けていたとしても、別の種類の不安を抱えていたはず。どちらにしろ人はそのような不安を抱き生きていくのであれば、思い切って何か自分の中の核心に触れるような、そんなことにチャレンジした方が良いのだろう。
もっとも、私の場合すでに会社を辞めている。今更あと戻りは出来ない。後は前に進むだけだと自分自身を奮い立たせた。
さて、「マダガスカルまでどうやって行くのか?」ということについては、特に細か意計画を立てていたわけではなく、あちこち寄り道しながらゆっくりと進んで行こうと決めていた。なにせ、時間はたっぷりあるのだから・・・。
まずは、以前から行ってみたかったインドネシアのパプア州(前イリアンジャヤ)へ飛ぶべく、旅行会社を訪れた。すると意外なことに日本からパプアニューギニアへの直行便があるという。ちなみにパプアニューギニアはニューギニア島の東側で、パプア州はその西側にあたる。つまりニューギニア島は東と西で2つの国に分けられている。
ということは、まず日本からパプアニューギニアに飛んで、それから陸路でインドネシアのパプア州へ入れば良いのだ。そもそもニューギニア島の熱帯雨林は以前から訪れてみたかったので一石二鳥ではないか。チケットについて詳細を確認すると、約2ヶ月前から週に1便直行便が運航することになったという。しかも料金はインドネシアまでとほぼ同じ。
これはパプアニューギニアへ飛ぶしかない!
こうしてマダガスカルへの旅は、パプアニューギニアからスタートを切ることになったのだった。次を読む
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