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ところで。 右大臣源正頼の三条殿には現在、大宮や大殿の上腹の息子達、それにあまたの姫の婿君が一堂に会して住み着いている状態である。 その中でも上達部に属する者は、それぞれ周囲に広い殿舎を建てて、充分に調度や宝を整えている―――のだが。 狭い。 正頼というひとは彼等が他のところに住むことを許さないのであった。 手狭だと不満は皆持っている。しかし不満だからと言って、現在の政治の中心である正頼に正面きって楯突くのも何だし、と面白くないながらも従っている。 ちなみにその一人である仲忠であるが。 彼は母の館も、京極の家もあると言えばあるのだが、格別不満には思わず妻である今上の女一宮のそばに住み着いているくちである。 そんな彼が、ある日その妻に切り出した。 「ねえねえ、そろそろ藤壺の御方が退出する頃じゃない?」 女一宮はそういえばそうね、とうなづく。三人目の御子の産み月が近づいているのだ。 「今日明日にも女御か后になるかもしれない方が、対にお住まいになるっていうのはどうかな。ちょっと僕としては気が引けるんだけど」 「うーん、言われてみればそうよね」 ちなみに現在彼等は女一宮の身分の関係で、この三条殿の中でも高い位置にあたる場所に住んでいる。 「だからね、中の大殿は彼女のために空けて、僕等は西の対を住み良いようにしつらえてそっちに移らない?」 「……どうでしょ。その辺りはお祖父様にも聞いてみなくちゃ」 その話は早速「お祖父様」である、正頼に届けられた。 「……そうだな。なら、いっそもうさすがに手狭になりすぎたことだし、そろそろ皆、住みたい場所に住んでもらうことにするか」 彼が婿君達を住まわせていた理由は二つある。一つは単に、娘の婿は自分の場所を本宅として通わせるという当時の慣習。そしてもう一つは、自分の身近を有望な人材で固めておく、意味。 後者の方が強かったかもしれない。子供が沢山できたのは結果だが、沢山の子供、特に娘はその様に自分の周囲を固める「武器」にすることができる。特に実の息子が大したことがなかった時には。 正直、正頼にとって息子達は婿達より悲しいかな、出来は宜しくない。唯一有望だった仲純は親にも分からない理由で命を落としてしまった。それだけに、彼は婿達を実に大切にしていた。―――つもりだった。 しかしそれが彼等の不満を生み出していたとしたら、対応を考えなくてはならない。彼も手狭だと考えない訳ではなかった。ただ、何かしらの理由がないと、物事は切り出しにくい。 ということで、彼はもっとも良い婿の一人の案に乗ることにした。 聞きつけた婿も息子達も皆それぞれに喜んだ。 藤壺―――あて宮のすぐ下の妹である今宮の婿である、仲忠同様「良い婿」の一人である源涼もまた同様に。 一世の源氏ではあるが、その一方紀伊国の「富の長者」である神南備種松の孫である彼は、近くに豪奢な邸を構えていた。いつ移っても構わなかったのだが、引き留められていたくちである。 「あら、でもあて宮が退出してきてからでもいいじゃない」 妻はそう言ってすぐの引っ越しを引き留める。 「あなたお迎えしたいでしょ?」 「それもそうだね」 彼自身はさほど藤壺には興味は無い。が、藤壺を迎えるという行事は面白そうだ、と思う。 さっさと引っ越した者も居る。六の君の婿のである左大臣藤原忠雅、五の君の婿、民部卿宮など。 七の君の婿である大納言忠俊は三条殿の西北の町に留まっている。ちなみに彼は忠雅の息子である。 正頼の息子達もそれぞれの妻の家へと移っていった。 ちなみに仲忠は宣言通り、西の対に住んでいる。京極の家はまだ大々的に造ろうとはしていない。彼なりに何かしらの考えがあるのだろう、と周囲は考えているのが、当人が黙っているので何も分からない。 さて、これらの人々が去った後、まず仲忠が住んでいた場所は仁寿殿女御に譲られた。 婿や息子達が住んでいた町は藤壺に。 そして空いた中でもう一つの町は大殿の上へと譲られた。 息子達は出てはいったものの、正頼の大殿のすぐ近く、あるいは向かいや隣に住むことにしていた。 その中で遠くなった者も、せいぜいが一町二町程度離れた位で、殿の内に住んでいるのと大して変わらず「軒並み」という程度である。
最終更新日
2011年03月14日 14時41分27秒
「おお、二人の大将が揃って参内か。梨壺の退出の迎えかな」 しぶる兼雅を仲忠が何とか引きずり出す様にして参内すると、東宮が上機嫌で梨壺へとやってきた。 「左大将はまた、久々だな。今年は初めてではないか?」 「恐れ入ります。最近は家に籠もってばかりおり、久しく内裏にも参上致しませんでした。突然、我が娘梨壺の君が退出すると聞き、こんな貧乏なので車のお供をする下郎も居ないだろうと私が車添になろうと思いまして」 まあ来てしまったものはどうしようも無い、と兼雅は立て板に水の如く、すらすらと口上を述べてみせる。 東宮は見事に笑ってみせ、機嫌良さげにこう言った。 「ずいぶん豪華な車添を梨壺は持っているのだな。貧乏ではなく、とんでもない贅沢者だ。それにしても父や兄という近親を近衛の両大将に持って護衛してくれるなど、昔も今も無いことだ。ありがたいことだな、梨壺よ」 梨壺の君は東宮のその言葉にややはにかんだ様子を見せる。 「しかし今退出しなくとも、もう少しゆっくりしてもよかろう? 今月は神祭の行事が多く忙しいというのに。藤壺も退出したいしたいと言っているが、このままではそう簡単にはさせられないな」 そう言って東宮はくっ、と笑った。兼雅の後に控える仲忠はその表情に藤壺の苦労を思った。 「……そろそろ。夜も遅くなりますし」 そう仲忠は口を挟む。判った、と東宮は愛想良く仲忠に笑いかけた。 さて、三条堀河の屋敷に退出した梨壺は南の大殿にと住むことになった。食事は兼雅の殿の政所からたいそう豪華なものが用意されていた。 その席で兼雅は久しぶりに娘と語り合う。 だが内容はと言えば。 「なあ、この度のそなたの妊娠のことは東宮様はご存じなのだろうな? 本当にご信じになられているのだろうな?」 途端に梨壺の表情がやや怒った様なものに変わる。 「い、いや別に私は何も思っては無いが、人々の噂というものは怖いもので、……色々私もついつい思い悩んでしまって。それに東宮様は藤壺の御方のことも何やら仄めかしたろう? そのことはそなたはどう思う?」 「父上……」 はあ、と梨壺はため息をつく。そんな話ばかりではせっかくの御馳走も美味しくなくなってしまうではないか。 彼女はできれば、全てにおいて心のどかに過ごしたい方である。別に藤壺が妊娠しようがどっちでもいい。 自分は自分だし彼女は彼女だ。藤壺が美しく才あることも良く知っているしそれに嫉妬する気も無い。 また東宮の寵愛が藤壺に異様な程だと聞けば、自分にはそこまで執着してくれないで良かった、と胸をなで下ろす方なのだ。 無論自分は藤原の家から入内したのだし、せっかくの背の君なのだからできるだけ愛された方がいいのは判ってる。だが正直、しつこすぎるのは嫌なのだ。 母を見ればいい。女三宮も今では生活も気持ちも落ち着いているが、かつてこの父が今の尚侍の元へと去ってしまった時ときたら。入内した自分のことを忘れたかの様に仲忠のことばかり構っていることを知った時は。 そういうのは嫌だ、と梨壺の君は思うのだ。 「東宮様の本当のお気持ちは判りませんけど、私が退出したい、と申し出ましたら、お召しがあってもう少し居て欲しい、とは口にされましたが」 「……その、することはちゃんとしているのだろうな」 「父上」 むっとした顔で彼女は父を見る。 「お召しがありましたら、それ相応のことは致します。当然でしょう。東宮様一筋に」 その強気の言葉に、ああやはり仲忠の妹だ、と兼雅は思う。母は違ってもそういうところばかりは似るのだろうか、と。 「……なら、いいんだ。安心したよ。私も嬉しい。実に喜ばしいことだ。そなたの懐妊を東宮様が御承知だということさえはっきりしているなら、あとでどんなことが起ころうと恥じることも無い。ただただ喜ばしいというものだ」 心底ほっとした様に、兼雅はうって変わって明るい声になる。 それからは兼雅も浮かれて、会わなかった歳月を埋めるかの様にあれやこれやと梨壺の君と話をした。そしてそのまま娘のもとにその晩は泊まった。 明けて早朝、薬湯をすすめられていた梨壺の君の元に、東宮から文が来た。 「昨晩は妙に急いで退出してしまったので、私の方も変なことを言ったかもしれない。以前はそんなこともなかったのに、他の妃達に恨まれる様な今では私もみじめで、あなたの退出を心淋しく思うよ。とりわけ今夜は。 ―――あなたが宮中に居ても会わない日が多かったのに、この春の夜は何とも恋しくて眠れなかった――― まあ、あなたから見たら私など空言びとになっているだろうけどね。 では、希う通りの安産であることを。そして早く参内して欲しい」 そう薄い紫の色紙に書いて、梅の花につけられた文を兼雅も手に取り、何度も何度も目を通しては感激する。 そして梨壺に返しながら言う。 「ああこれで安心した。この御文は大事に取っておくんだよ」 使いの者には酒を振る舞ったり、物を与えたり、たいそうなもてなしぶりである。 その間に梨壺の君は返しの文を書く。 「昨夜は夜が更けたと申して皆がせき立てましたので、落ち着かなくて失礼申し上げました。『空言びと』とおっしゃる方へ、それだけが私の咎でございましょう。 ―――宮中と里との間を自由に出入りなさる方々を私はよそながら羨ましいと見つつ、随分久しい間退出も致さず宮中で堪えておりましたこと…… たとえお側にお仕えしていましても」 一方仲忠は東宮の文が喜ばしいものであったことを受けて、檜破子などを用意した。そして梨壺の女房達に銘々取らせ、振る舞った。 兼雅は寝殿へと渡っていった。
最終更新日
2009年08月14日 23時30分53秒
それから程なくして、梨壺の君が退出するという噂が立った。聞きつけた仲忠は早速父の元へと向かった。 だがその父は何やら難しい顔をしている。 「なあ仲忠、梨壺が退出するらしいが、どうしたんだろう? 東宮の御寝所で奉仕するのが何よりもの勤めなのに。そう簡単に退出が許されるとは思わないのだが」 仲忠はきょとんとして首を傾げる。もしや父は知らないのだろうか。それとも深読みして? ともかく聞いてみる。 「そんなこと無いですよ」 「どうして」 「この間、梨壺の君本人から聞きましたよ。元々、最近はちょくちょく東宮から召されている様だし」 「……そうなのか?」 「父上、本当に宮中の噂に疎くなりましたね」 強烈な一撃が仲忠から放たれる。おそらく兼雅自身は梨壺の妊娠自体は知っているだろう。だがそれが果たして本当に東宮の胤なのか疑っているのだ。 「先日梨壺に挨拶に行った時、彼女自身から聞きましたよ。東宮様から『藤壺も妊娠している様だ』と言われた、と。『も』ですよ」 「『も』か」 「『も』ですよ。東宮様ご自身がご存じなんだもの。まさか父上、ご自分の可愛い娘が密通などしていた等と疑ってはいませんよね?」 ははは、と兼雅は力無く笑った。 「別に疑ってはいないさ。ただ噂というものは怖いものだからね…… まあともかく、退出するというなら、車をやって迎えに行こうか」 はい、と仲忠はにっこり笑った。 車を整えさせながら兼雅はふと考え、そして頼りがいのある息子に問いかける。 「あれの里内裏は一条だが、今は荒れ果てたあそこじゃさすがに可哀想だよね」 「当然ですよ。そう、母君である女三宮も今は居られますから、ぜひ三条へ迎えた方がいいです」 よしよし、と兼雅は納得し、一条殿にあった調度などを女三宮の住む辺りの西面、西の対にかけて運ばせる。また女三宮にもその旨を伝え、迎える準備を頼む。 その結果、車が十二、先駆もあちらこちらからわらわらといつの間にか沢山現れる。女三宮の女房も二十人程入り、用意は万端となったところで。 「どうして当の父上がお迎えに行かないんですか」 仲忠はむっとして問いかける。兼雅は参内のための服に着替えてもいない。 「嫌だよ。だって色々と内裏の方でまた噂が立つだろう? お前も行かない方が」 「何言ってるんですか!」 とうとう仲忠は怒鳴った。 「女性というのは、しかるべき人がお供をすると、自然、立派に見えるものですよ。大体父上、その昔母上を連れてきた時のことを考えてみてくださいよ。父上だったから皆、落ちぶれた家の娘だった母上に関心を持った訳じゃないですか」 「お前の母は違うよ。元々が素晴らしい人だから」 「そんなのは、母上の姿を見られる父上や僕くらいしか判らないことでしょう? ああそう、女性達もかともかく世間を納得させるためにも」 「何に納得?」 「こっそり退出するなんて、噂を認める様なものじゃないですか。後ろめたい思いがあるから、と。僕と父上が重々しく迎えに来て、東宮様もそれをしっかり認めるという形を取れば、馬鹿馬鹿しい噂だってすっ飛ぶというものです」 「すっ飛ぶ、ねえ…… けどこのこの間の正頼どのの一件、お前も覚えているだろう? 藤壺の御方の所へぞろぞろ引き連れて、東宮様に惜しまれるのはそれは名誉なことだが、結局勘気に触れて、いろいろややこしいことになったじゃないか……」 「はいもう面倒だから皆、父上を参内するための格好に着替えさせてやって」 女房達が仲忠の言葉を合図に、兼雅に飛びかかった。
最終更新日
2009年08月13日 21時48分50秒
兼雅は一条殿から戻ると、尚侍にため息まじりでこぼす。 「ここ数年、一条のことは心に掛かっていたけど、女達が待っているだろうと思うと何となく気が重くて行けなかったんだ」 尚侍は黙って兼雅の話を聞く。このひとは決して強くない。いいひとだが、それが万人に対してのものではない。尚侍はそれを良く知っている。 「それで人が居なくなったと聞いたので、今後の建物のことの管理のこともあるし、行ってきたんだ」 「そうですか…… 如何でした? あなたから見たご様子は」 「辛くなったよ」 そう言って兼雅は尚侍の膝に甘える。 「ただただ色々屋がある広い家に、もう住む人も居なくて荒れ果ててしまってね。気配も音も無くて、ただもう草木ばかりが風にそよぐ音ばかり」 荒涼とした風景が尚侍の心の中にも浮かぶ。ああこれは。彼女はふと、自分が昔住んでいた場所を思い出す。京極。 そっと硯を引き寄せると、彼女はさらさらとこう書き付ける。 「―――あなたを待ちあぐんで、私はいつも尾上の滝のような涙を流していました。それに比べあなたはその頃、一条に通って住み心地が良かったのでしょう」 ひらり、と彼女はその歌を夫に見せる。 「自分のかつての身につまされて同情?」 「私は嫌な女ですから、今こうやって『あの頃』とばかりに書けるということが幸福じゃないかと思いますのよ」 実際そうなのだ。 誰を迎えたにせよ、兼雅がずっと過ごすのはこの尚侍の所ばかりなのだ。 女三宮にはあえて贈り物などをする訳ではない。 かと言って冷淡にするという訳ではない。彼女はわざわざ贈り物などされなくとも裕福なのだ。 兼雅の屋敷内に居る、ということだけで、彼女の元には兼雅の家来が何かとあちこちの荘園から物が持ち込まれる。 また同腹の宮達からも、あちこち移り住みする彼女を心配し、何かと贈り物をして豊かな生活をさせている。 「あれは生来のものだな」 兼雅はそう思う。自分が居なくとも彼女にはあれこれと世話をしてくれる人が居るのだ。そして彼女自身にもそうさせたくなる様な何ががあるのだ、と。 一方中の君は、と言えば女三宮の様に心配してくれる身内が誰も居ない。なので兼雅や尚侍は、贈り物があるとそれをいつも少しずつ中の君に分けてやる。 そして、兼雅はこの二人の元には夕方に出向くことはあっても泊まることはなかった。
最終更新日
2009年08月12日 21時14分56秒
その頃の一条殿には何とも言えない空気が漂っていた。 女三宮や中の君の殿移りの際には、兼雅が車をぴったりつけさせてそっと連れ出したおかげで、その当日には他の女性達も気付かなかった。 だが翌日からはもう大っぴらに女三宮や中の君の物を運び出すやら、部屋の掃除をするやら。残っていた女性達はそれを見て愕然としたのだ。 彼女達が残っていればこそ、兼雅が通う可能性もあり、そのついでに自分達も… という期待があった。だがこの二人が居なくなってしまっては。 「ああもう駄目だわ」 一人はそう言って嘆く。 「あの方々がいらしたからこそ、それでもここに住めたのに。もう何もかも駄目だわ。一体どうしたらいいの」 また一人、また一人、と嘆きが止まらない。そして嘆きは噂となってそれぞれの縁者へと伝わって行く。 真言院の律師は、父の妹のために家を購入し「引っ越していらっしゃい」と招いた。 彼女はそれでもなかなか思い切れず、兼雅の出方を見ようと思って一条にしばらく留まっていた。 だが皇女や、宮の縁につながる人々は迎えても、自分達はもう無理だろう、とやがて彼女も気付いた。 彼女から同意の文を受け取ると、ある夜、律師は自ら車を出して迎えに行った。少ない身内である。できるだけ幸せになってもらいたい、と彼は思うのだった。 北の対に住んでいたのは正頼の大殿の上の妹に当たるひとだった。后の宮の御匣殿の異腹の妹でもある彼女は、仕えているうちに兼雅と知り合い、やがて引き取られ世話をされるようになっていた。 顧みられなくなった彼女に、きょうだい達は多少の非難めいた言葉を投げた。 「だから、そんな大っぴらな仲にならずとも良かったじゃないですか」 それでも、別納を家にして移し、世話をすることは忘れない辺りが、やはりきょうだいであろう。 西の対に居た梅壺の更衣は、実家である宰相の中将の私邸に引き取られていった。 西の一の対に居たのは、皇女腹の宰相中将だったひとの娘だった。彼女には兄が居たので、そこに引き取られて行った。 仲頼の妹は仲忠が、二条の院のささやかな家に「しばらくの間」と言って住まわせることにした。 その様に女達が立ち去った後の一条殿は、ただ女三宮の家司達が集まり、管理のために家族と住むばかりだった。 やがて花盛りの頃、兼雅は仲忠を一条院に誘った。 「一条は人の気配も無いだろうけど、女達がどんな風に住んでいたのか、その跡を見に行かないかい?」 仲忠も気にはなっていたので、あっさりとうなづいた。 まず北の御殿へと入ると、中の君が居た場所に彼女の手でこう書かれていた。 「―――夫が通わなくなり、自分も去ろうとする宿なので、やはり名残惜しく涙を流すことよ」 次にに西の対の、梅壺の更衣の居た場所へ行くと、柱に歌が書き付けられている。 「―――身近な雲井―――宮中に落ち着いて奉仕すべきだったのに、風に吹かれる塵の様に惑った私は何という浅はかな女だろう」 彼女は院に仕えていたところを兼雅が無理矢理奪ってきた様なものだった。 そんな若い、浅はかだった頃の思い出を兼雅はしみじみを思い出す。 そしてまた同じ西の一の対を見ると、今度は宰相の君の手でこう書かれている。 「―――この一条殿に久しい間夫を待って待ちくたびれて去ろうとするのに、その折りにすら訪ねても来ないのだろうか」 さすがに兼雅も女達の嘆きの声に「ああ可哀想に、一体皆何処へ行ってしまったのだ。どうにかしてこの返歌をしてやりたい」と思う。 次に東の二の対に入ってみると、やはり柱にこんな歌があった。 「―――来ない人を待ちわびて(ここを去って行く)私が居なかったら、籬の竹よ、お前は誰を払うのだろう?」 同じ東の一の対にも柱に歌があった。仲頼の妹である。 「―――(ここに居ればこそそれでも)訪れて姿を見せた宿だけら、またいつかはと頼みになっってしまったけど、私自身さえ知らない宿へ行ってしまったら、どんなに心細いことだろう」 兼雅はふとつぶやく。 「これを書いたひとは一体何処に行ったのかな。母宮の元にはきっと居ないだろうに」 するとそれを聞きつけた仲忠がすかさず答える。 「僕が二条の院に移しました。あそこもそのうたち増築されるはずだから、そこで女一宮が淋しくならない様に、話し相手にでもならないかと思ったので」 「まだ若くて頼りない境遇のひとだから、色々困ることもあるだろうに」 兄は出家してしまっている。母宮の元にも居ない。そんな不安定な境遇を兼雅は心配する。 「大丈夫です。僕が色々用意しました。友人の妹ですし、そのうち、我が家にとっても必要なひとになってもらうつもりですから、それ相応に」 そうか、と兼雅はしみじみとうなづく。そしてゆっくりと辺りを巡り歩く。 「昔は女達がそれぞれに我も我もと様々に庭の花など凝らして住んでいたものを。今は花だけだな」 眺めているにたまらなくなった兼雅の目には涙がにじんでくる。 「―――心ない花でさえ昔に変わらず美しい色に咲き出たのに、私を待っていると思った人達は皆居なくなってしまった」 すると仲忠がこう返す。 「―――長年の間父君を待っていた女達をも遂に去らせてしまった程の宿ですから、春に咲く梅も不安に思うことでしょう」 さりげなく母のことを匂わせる。尚侍に対し、そんな仕打ちをこの父がする訳は無い。判ってはいるが、この光景を見た仲忠としては、やはり一本釘を刺しておきたい。 「お前、こんな時にもきついよ」 涙目のまま、兼雅は息子に向かって言う。 「仕方ないでしょう。自業自得です。皆それぞれの人生をこれからは歩んで行くんですから。父上もさあ」 「さあ、何だい?」 「とりあえずは修理するところとか、指図してくださいよ。持ち主のお役目でしょう?」 全くきつい息子だ、と兼雅は思う。それでも彼は最後にはきちんとその「役目」を果たしていった。
最終更新日
2009年08月10日 22時19分07秒
兼雅は女三宮の元に来るといつも思う。 このひとは非常に気高く威厳があるのだが、そこがどうも近付きがたい印象を与えると。 「まあ兼雅殿。お久しぶりですこと」 女三宮は涼しい声で兼雅に声を掛ける。 「申し訳ございません」 兼雅はそう答えながらふと思う。 昔はずいぶんと仲睦まじく暮らしていた様な気もする。その時はこのひとも―――いや、それなりに気位の高い所はあったが、これほどによそよそしいことはなかったものの。 それというのも、自分が。 「…この数年来、頼りない振る舞いをしておりましたから、せめて近くにおいでいただいている時でも度々こちらへ寄らせてもらいたいと思うのですが」 だったら来ればいいのに、と一方女三宮は思っている。おそらくこの後もくどくどしい言い訳が続くのだろう。昔からそうだった。口が上手い――― 「ここに住まわせている、仲忠の母であるひとは、その昔… まだ自分が世間も知らない少年だった頃に出会った女です。ところが子供ができたことすら教えずに何処かへ身を隠してしまって…」 その間に自分の所へ素知らぬ顔で通ってきたのだ。女三宮の表情はますます硬いものになる。 「それをひょんなことから見つけてしまい、それ以来ここに居着いてしまいました。あの頃はあなたから離れるなんてほんの少しの間のことだと思っていたのに… あなたはさぞ変だと思っていたでしょう」 思ってはいた。だがその一方で男を信用していない自分の存在にも女三宮も気付いていた。元々兼雅は色好みで有名な男だ。自分もその口に乗ってしまい、…そしてまだ微妙に冷めきれないところがあるのが癪に障るのだが。 兼雅は彼女が黙って聞いているのをいいことにべらべらと続ける。 「今はもう、色好みと言われた昔など嘘の様に静かに暮らしております。宮仕えも昔ほどには致しません。そんな風にいつも近くに私が居ますので、ここに住むひともそれに慣れてしまったのでしょうか。もし突然私がまた誰か別の女性の所へ行くと、ふっと姿を消してしまうのではないかと心配で」 結局は尚侍の側に居たいのだ。その理由をひたすらべらべらと喋り立てている。少し煩い、と女三宮は思う。 昔はこの立て板に水の様な口調で自分を褒め称えたものだ。 だが、それは既にこの男には過去のことなのだろう。 兼雅は続ける。 「今はもう、子である仲忠がここに居るので、彼女も私をその親として扱ってくれます。そう簡単に何処かへ消えてしまうことは無いととは思うのですが… その仲忠がまた、今の世に珍しく真面目な男なので、私の過去の不行状を見て何かと私を責めるのですよ」 「まあ」 ふっと女三宮は可笑しくなる。すらすらと並ぶ言葉の中で、そこは妙に真実味が感じられた。 「そのうちに自然ご覧になることもありましょうが、あれは本当に不思議と私に似ない子で、まだ若いのに、先程も申しましたが本当に真面目で、帝の女一宮一人を守っております」 それは噂でも良く聞く。帝や院からの命による婚姻だったというのに、実に仲睦まじく暮らしているという。 あっさり子ができたこともあるが、何よりも仲忠の態度だ。先日の先祖の文を読むべく内裏に詰めた時、何度も何度も女一宮の元に文を送っていたという。 「…そんな息子に、若い頃の様に浮かれ歩くのを見られるのが恥ずかしいので、あなたの元に度々伺うことはできないのですが… 忘れている訳では無いのですが…」 「何もそんなに次々と言い訳をすることは無いですよ」 女三宮はそこでようやく口を挟んだ。 「仲忠どのも、以前はあなたの様に浮気者だと言われたこともありますが、何と言っても女一宮が美しく名高い方だから、大変真面目になられたのでしょう」 そうだろうか、と兼雅は内心思う。女三宮は続ける。 「あなたにしてもそうですのよ。そちらの尚侍が美しく賢いことは世の中にも広く知られたことです。そんな方がご一緒だから、私を含めた他の女達を省みなくなったとしても、それはどうしようもないことでしょう」 「や、それは…」 「私には無理でした。あの方だから、あなたを独り占めすることができたのですよ」 ふふ、と女三宮は笑う。 仲忠の母が、帝の要望で参内して琴を弾き、またその件で尚侍に任じられたことを女三宮は良く知っている。 帝は直接尚侍に会っている。話をしている。その上で琴を弾かせている。彼女の腕と賢さと、そして美貌を目の当たりにし、その上で役職につけたのだ。帝自身が。 これ程一人の女性の評価において確かなことがあろうか。 「私のことはいいのですよ、もう。ただ娘の梨壺のことは忘れないでくださいな。それだけが私の願いです」 参った、と兼雅は息をついた。
最終更新日
2009年08月10日 20時37分23秒
翌朝早く、辺りがよく見える様になってから兼雅はじっくりと息子が用意した家の中を検分してみる。 鎖を差して鍵を結い付けた美しい唐櫃が唐櫃が二具。よく見ると香木で出来ている様だった。中には様々な衣装が入っている。美しい絹のものもあれば、綿や、様々な紙も入れられている。 衣桁には覆いをして、衾などを掛けてある。 全体的に見て、机や唐櫃といったものが多かった。 寝殿の外に出てみると、他には四尺の厨子が三具、三尺のが一具、覆いをされていた。兼雅はまたそれも開けてみる。すると男女の調度である二段重ねの厨子が十具。覆いをかけた硯の具などもある。 また大きな厨子が二つあり、その中の一つには、唐の珍しい品々がよく整えられて置いてある。他の厨子には、調度や燈台の具などもあった。 また北には新しい長屋も造られており、その中に沢山の区切りをして、様々な用に使える様にしてあった。贄殿、酢酒つくり、漬け物、炭木油などが置かれている。 蔵も一つあった。そこには銭、米、粗末な布などが置かれており、またそこも鎖がかかっていて、鍵は厨子の中にあった。 御厨子所には、兼雅のためのものが良く揃っていた。 兼雅がそうやってこの新しい住まいをあちこち見ていると、中の君は昨晩兼雅が用意した綾や掻練、織物の細長といった装束を身につけていた。 中の君はもう四十近かったが、非常に可愛らしく、髪も身の丈より二尺程長く、年よりずっと若く見えた。 連れてきたことに兼雅はほっとした。一体あのまま置いておいたなら、一体このひとはどうなっていただろう、と。 兼雅は女房達に命じた。 「一条に残った人々へ伝えてくれ。『一条殿にあるつまらない道具類は留守番をする乳母に皆やってしまい、あちこちを掃除して、夕方にはこちらへやってくる様に』と」 そして中の君には家の券に、仲忠から贈られた家財道具類の目録を添えて渡した。 「いいかい? この家の券と目録だけは、ちゃんとした所に納めておくんだよ」 中の君は少女の様にこくんとうなづく。 兼雅はこれだけはちゃんと守ってもらう様に、と彼女を真っ直ぐ見据えて言い含めた。 「私もいつも来る訳にはいかない。近いから、時々訪ねては来るけどね」 すると彼女の目の中に、不安げな色がよぎる。 「ねえ、あなたももう今では若くは無い。両親もお亡くなりになってしまった。私を頼るのはいい。暮らしのことは安心していい。だが家の中のことは別なんだよ。今までの様に何も考えずに暮らして行くことはできないんだよ」 「…殿」 「乳母どのは向こうで留守番をしてもらう。ここではあなたがこの家の女主人なのだから、女房や下仕えに対しては、きちんとした態度を取るのだよ」 「…私に出来るのでしょうか」 弱々しい声に兼雅はふっと表情をゆるめる。脅かしすぎたかもしれない。 「あちらに仲忠の母が住んでいる。今どき珍しい程に心映えが良いひとだから、あのひととは疎々しくなることはせず、仲良くしておくれ」 はい、と中の君は小さく返事をした。 さてその足で尚侍の元へと兼雅は戻って行く。 それまで手のかかる子供の様な女性を相手にしていたせいか、目の前に居る妻の姿に彼はほっとする。 元々美しい人であるが、この時は尚更だった。装束は清らかにし、髪も手入れをしたばかりの様に艶々と、さっき婿取りをした娘の様である。 住居の様子も文句のつけようが無い。 尚侍の居る所は決して明るく無いはずなのだが、彼女自身の姿がまるで光り輝いて見える。使う香の素晴らしさは言うまでも無い。 女房達も美しいのが三十人位いつも出入りし、そのうちの二十人が主人の側を離れずに居る。童や下仕えも沢山居る。 ここ三条堀河の、尚侍の住む殿は元々一町である。 それを尚侍を迎えてより、建て増し建て増しされている。建物だけでなく、庭にしても、趣味を映し、心を込めた殿が造り重ねられているのだ。 兼雅は尚侍の側に座り、話しかける。 「可哀想なひとを三条に連れてきたよ」 あああのひとだ、と尚侍はすぐに気付く。 「元々ね、父君である式部卿宮は大層多くの財産や荘園を持っていたんだ。それで亡くなった時に中の君はそれを受け継いだのだけど、この数年私が放っておいた間に、仕えていた者達が皆それを無くしてしまったんだ」 「…まあ」 胸が痛む。尚侍にとってそれは人ごとではない。自分もかつて、その様にして父の残したものを失ってしまったのだ。 「仕えていた人々もだんだん減っていってね。…あなたも今、特別頼りにする人も無い様だから、近しい人として中の君のことを思ってやって欲しいんだ」 尚侍は大きくうなづく。 「若いひとが親も無く、世話をしてくれるひとも無いのはどんなに辛いことでしょう。…いえ、それより世の中ですね」 ふっ、と尚侍の口調が珍しく皮肉気になる。 「世の中?」 「ええ。それほど苦しまなくて良かった私でさえそうでしたから。一応姫育ちで、生活する方法も知らず、親も私に『運が悪ければ、どれだけ幸せを求めても苦労するだろう。運が良ければどれだけ恐ろしい目に遭ったとしても、きっと困難に打ち勝つだろう。全ては神仏の思し召し次第』と言ったきり」 尚侍は苦笑する。 「それだけですのよ。実際にどう生活して行くか、なんてこと、誰もまるで教えてくれませんでしたもの。仲忠だって、ちゃんと生まれていたかどうか…」 ふとあの頃世話を焼いてくれていた「さがの」のことを思い出す。そして今まであまり思い出しもしなかった自分を軽く苦々しく思う。 「それで両親とも引き続いて無くなりましたから、もう私はあの頃どうしていいのか判らなくなっていました。その私ですらそうだったのですから、宮の御子とも言われる方がそんな不幸な目に遭ったのでしたら、もう何とも」 全くだ、とばかりに兼雅は大きくうなづく。若子君だった彼が出会った頃の彼女の生活もひどかった。夢の様な逢瀬だったから、それはあくまで大人になってから冷静に思い返してみると、だが。 それだけに彼もまたしみじみと言う。 「全くだ。私も女の子を大勢持っていなくて良かった。もし私にそんなことがあったら、と思うとぞっとする」 そして娘、という言葉から梨壺―――女三宮を思いだしたのだろうか。 「そうだ、今日は気の毒なひとを訪ねる日にしよう。今から女三宮のところへ行って来るよ」 「それが宜しゅうございます」 尚侍はにっこりと笑った。
最終更新日
2009年08月06日 22時31分32秒
やがて二月になると、仲忠は三条殿に以前から言われていた家の券を兼雅に渡しに行った。 「前に父上から頼まれていた家の券です。言われればこの位の家ならすぐに造りますよ。ちなみにこの家は父上ほどの方には残念な程小さくて貧弱なものですけど、これを、ということですので」 無論仲忠は兼雅自身が住むのではないことなど承知している。あの一条の家に住む女性の誰かに与えるのだろう、と予測していた。なので。 「家はそのまま、家財道具もそっくり添えて差し上げます。はい、これが目録です」 そう言って、仲忠は家財道具類一式を書き留めた書類を兼雅に渡した。兼雅はそれを手に取ると、満足そうにうなづいた。厨子、唐櫃、几帳、屏風を始め、一切の道具がある。また蔵も別にあり、その中にも必要なものを用意してある。 「何に父上がお使いになるのか僕は知りませんけど、一応、家の周りの雑草は刈らせましたし、垣根もすっかり新しく造って、檜皮の御殿らしくして、いつでも人が住める様にしておきました」 「それはありがたい」 目録を戻しながら、兼雅は微笑む。 「ところでお前、二条の家の代わりはどうしようか? できれば春渡したいが」 「要りませんよ。何も」 「いやそれでは」 「近江守に僕も一応代わりの家のことを聞いてはみたんですよ。そうしたら、『私をどんなに不甲斐ない者と思ってらっしゃるのか』って恐縮してしまって。そうなるとわざわざ用意するのも逆にあれに可哀想かな、と思いませんか?」 それもそうだ、と兼雅はうなづく。 「それでは今日はここでお暇します」 「おいおい、用件だけかい? 薄情だなあ」 「僕も色々忙しいんで。…あ、父上」 「何だ?」 「ちなみにこの家へのお移りはいつ?」 兼雅は具体的なことを聞かれ、少し息を呑む。この分では誰を移そうとしているのか、仲忠は知っているのだろう。しかしここではあえて名は出さない。 「五日に。お前は格別手を出すことは無いよ」 「そうですか。では」 あっさりと言うと、仲忠は三条殿へと戻って行った。 五日になると、一条殿に住んでいる式部卿宮の中の君のもとへと車が三台用意される。 その中には中の君が三条へ移る時の衣装を入れた箱も乗せている。 お供には気心が知れ、安心できる人を五、六人程選んだ。 夜更けになってから、兼雅は一条殿へと忍びで出かけた。 中の君の対屋へそっと入って行くと、おつきの女房達が四人、童や下仕などが二人、きちんとした装束をつけて控えている。中の君自身も白い衣を沢山重ね、かつての寒そうな様子とは大違いである。 御殿油も灯し、付近が暖かそうな雰囲気に包まれていた。 「まあ殿様」 女房の一人が気付いて驚いた素振りで迎える。兼雅はあえて迎えに来る日を彼女達には告げてはいなかった。あたふたと出迎える準備をしようとする彼女達を兼雅は手で制す。 そして中の君に近づき、そっと手を取るとささやく。 「突然来てしまってすまないね。この間も格別にしっかりしたことも言わないで。あなたにはずいぶんと不安な思いをさせてしまったことだと思う」 「…いいえそんなこと」 「それでね」 中の君が何か言う前に、兼雅は本題の口火を切る。 「あなたを守っていきたい、という気持ちは昔と変わらないのだけど、あれから不思議なことに、幼い頃契って、行方も知れなかったひとをある日、見つかってしまったんだよ」 女房達は顔を見合わせる。無論それが世間でも噂の仲忠の母、尚侍であることは彼女達も良く知っているのだ。 「そのひとをずっと哀れに思って一緒に何年か暮らしているうちに、ついあなたへの御返事もせずに過ごしてしまったんだ…」 女房達は無論尚侍が素晴らしい女性だということは聞いている。かつては「色好み」と言われた兼雅を独り占めできる程の女。帝にぜひと乞われて弾き、そのおかげで地位までも手に入れたという琴の腕。そしてあの素晴らしい仲忠右大将の母… 判っている。自分達の主人が彼女と比べ者にならないことは。しかし。 「いや、それはまた今度ゆっくり話しましょう」 女房達の不穏な気配を察したのか、兼雅は話題をうち切る。 「実はね、今私がその女と住む三条の東角に小さな家を用意したんだ。あなたのためにだよ」 「お家を、ですか… 私のために?」 中の君ははっとして兼雅を見上げる。 「そう、あなたのためにだよ。これからは近くで、時々様子を見にも行きやすい。そこでのんびりと暮らせばいい。そう思って今日はあなたを迎えに来たんだ」 「…そんな、急な…」 それまであまり変化の無い生活を送ってきた彼女には、さすがに兼雅の申し出はあまりにも唐突なものだった。無理だ、と即座に思った。 だが兼雅は畳みかける様に続ける。 「持って行く程の家財道具がここにあるという訳でも無いだろう。それでも、というなら残った調度はここに置いて、乳母を留守番にすればいい。向こうにはもう、何もかも揃っているからね」 「でも…」 「あなたには今日が吉日なんだ。さあ、行こう」 さすがにそこまで言われては、中の君も了承せざるを得ない。 兼雅は車を呼び寄せ、中の君をそこに乗せた。副車にはそこにいた女房達と、当座の荷物を載せる。そしてそっと一条院の西の門から出て行った。 三条殿に用意された家に着いてみると、中の君の御座所が新しく用意され、近くには美しい屏風や几帳などが置かれている。 中の君はもちろん、女房達も日常の手回り品が全て揃っていることに驚いて口もきけない。 「今日はここに泊まるからね。ゆっくりと今までの話をしようよ」 兼雅はそう言うと、食事の用意をさせ、その晩は中の君のもとに泊まっていった。
最終更新日
2009年08月06日 22時30分19秒
仲忠は東の大殿の南の方へと向かった。 そこで藤壺腹の宮達の前に沈の折敷に小さな瑠璃の坏を捧げる。 次いで可愛らしい雛形の小車や銀や黄金で作られた馬等を並べ「宮様達、お出でなさいませ」と声を掛ける。 若宮と呼ばれている一宮はこの時、綾掻練を一襲、袷の袴、織物の直衣を身につけていた。現在五歳で、年の割に大きく、肌の色や髪の筋の美しさは母である藤壺の御方に似ている。高貴さは父東宮譲りであろうか。髪は背中にまで伸びて、海松の様にふさふさとしている。 同じ格好をした弟の宮は一つ下で四歳。髪はまだ短くて、肩までかかり、兄宮の様に気高い。 仲忠は兄宮弟宮の二人を一緒に膝の上に乗せ、話しかける。 「あちらに居る、うちの子に餅を食べさせるのですが、まずお二人に召し上がってもらって、そのお下がりを貰おうと思いまして」 「大将の子ね。僕、見に行ったことあるよ」 一宮は無邪気に仲忠に向かって言う。仲忠は内心はともかく、にっこりと若宮に笑みを向ける。 「そうですか、如何でしたか?」 「うーん、けど僕、見られなかったんだ。女一宮が隠しちゃって」 「僕がひどく泣いたの。そうしたら見せてくれたよー」 弟宮が割って入る。ぴく、と仲忠の頬が引きつる。 「それでね大将、抱っこさせてもらったんだけど、重くてね、落としちゃって。みんな大騒ぎ」 さっと仲忠の顔から血の気が引く。 「…そ、そうですか。で、どうでした? みっともない子だったでしょう?」 「ううん、すっごく可愛かった! こっちに連れて来ようとしたけど騒いで止められちゃった。ねえ、大将が今抱いてきて」 子供だ子供だ。しかも宮だ。仲忠は内心の苛立ちを必死で押しとどめながら、精一杯言葉を紡ぐ。 「…今は汚れていてきっと気持ちが悪いし、色々失礼なこともしますよ。いつか大きくなったら近くにお召しになって可愛がってやって下さいね」 「わあい、嬉しいな。遊ぶ子が居なくてつまんなかったんだあ」 ね、と若宮は弟宮とうなずき合う。 子供は純真だ。さりげなく仲忠の言葉の端に、未来の後宮入りを匂わせているのにはさすがに気付かない。 その後は仲忠が手ずから食事の用意をし、宮達にも箸で「あーん」と口まで御馳走を運んでやる。 「雛に子の日をさせるために、車を引いてきました」 そう言って用意した小さな車を宮達に渡すと、宮達は喜んでそれで遊びだした。 仲忠はいつもこの様に趣のある玩具をこの小さな宮達にあげたりする。含みが無い訳ではないが、それでも基本的にはこの藤壺腹の宮達は彼も好きなのだ。 その後仲忠は中の大殿に戻った。 一方、尚侍は賭弓の料に用意しておいた被物を三条へ取りに行かせる。 仁寿殿女御の宮達には、袿袴を添えた女の装いが贈られた。祐純や行正には例の装束を、親純や行純には織物の細長、袷の袴などを。 やがて皆帰途についた。 尚侍は南面に御座をしつらえて、自分の共の者達をそこに控えさせ、自身は仁寿殿女御との会話を楽しんでいた。 それからやや日が経ち、司召の日となった。 この時行純は侍従に、正頼の六男兼純は左衛門佐になった。 この時、自分の使人の中で昇進させたい者が居る場合、それなりの力がさりげなく行使される。 たとえば仲忠は、その昔自分が住んでいたうつほのある北山から三条堀河へと移る時、馬添として忠勤に励んでいた者を今回伊予介に、と申し出た。彼は当時大学の允で、蔵人所の雑役をしていた。 さすがにこの任官はなかなか困難なものがあったが、そこは仲忠の力で実現させてしまったのである。
最終更新日
2009年08月05日 23時20分50秒
さて、一月の最後の子の日である二十五日はちょうど犬宮の御百日に当たっていた。 この日の祝いの席は、祖母にあたる尚侍が賄いをすることになっていた。 当日になると、尚侍は車六台を仕立ててやってきた。 食事の用意となると、犬宮の前に沈の折敷が一二、それに金の坏といったものがずらりと並べられた。料理の入った檜破子は百も用意された。 曾祖父である正頼は司召の夜だったので昨晩から参内し、その場に居ないが、左大臣はやってきた。 仁寿殿女御や男宮達の前にも衝重や破子が並べられる。大宮や女宮、東宮の若宮達、その他の人々隅々にまで、檜破子が用意される。 また、藤壺には檜破子と、普通の破子をやはり十ずつ差し上げようと、仁寿殿女御が文をつけた。 「…新年には早速に賀状を差し上げないといけないとは思っていたのですが、不思議にも貴女様はこちらからの文はごらんにならないと承っておりまして。 その様に此方も控えているうちに、犬宮の百日の祝いをする頃になってしまいました。さすがにそれは申し上げない訳にはいけないと思いまして… ―――幾千万の御代を、かねて生まれ出た小松―――犬宮―――に月末の子の日の今日が百日の祝いであることを知らせてきます―――」 女御はその様に青い色紙に書くと、小松につけて送った。 藤壺は月半ばにあった踏歌の夜からは東宮から許されたのか、下屋に居た。おかげでこの消息文も読むことができる。 皆そのことにはほっとしていた。彼女はここしばらくというもの、ずっと東宮の側に居ることを強いられ、窮屈な思いをしてきたのだ。 若宮達もこの折りに母の元を訪ねることができた。 藤壺は送ってもらった檜破子は殿上人に分け与え、その後女御へと返しの文を書く。 「誠に不安になる位、この数日は里のお文も見ることができませんでした。お祝いの言葉はぜひ直接お目にかかって申し上げたいです。 犬宮はどんなにか大きくなられたことでしょう。楽しみです。 ―――仰せの通り、幾千万にも及ぶ御代の子の日を迎えるはずの姫松―――犬宮―――に、私も色々告げてあげたいことがあります――― 退出したいと思うのですが、なかなかそれが思うに任せないのが…」 女御はそれを受け取ると苦笑する。全く大変な妹だ、と。 やがて犬宮に祝いの餅を、と女御が折敷の洲浜を見ると、鶴が二羽と松が設えてある。そこへ兼雅の手でこう和歌が書き添えてある。 「―――百日の祝いが乙子の今日だ、と知らせてくれた。その乙子を数えていけば、姫松の齢は幾千年の代を保つだろう―――」 「これは大層立派なお手本ですこと」 女御は柔らかに微笑み、こう詠む。 「―――生まれてからもう百日の祝いになりましたね。めでたい子の日に当たって小松はその日を幾千代も数える程迎えることでしょう―――」 そしてまた尚侍、女一宮がそれに続き、犬宮の長寿を願う。 「―――百という数のの今日を今知った姫松は、どうして千という数を知らないことがあるでしょう―――」 「―――めでたい子の日に百日の祝いを迎えた姫松は、これから子の日を数え数えて長寿を保つことでしょうよ―――」 尚侍はそれらの和歌と洲浜を一緒に外に居た仲忠へと渡す。彼はそれを見てまた詠む。 「―――姫松は限りない乙子を迎え迎えて先年にもなる春を見るに違いありません―――」 仲忠はこう詠むと、また元の場所に差し入れたので、この歌は誰にも知られることはなかった。 その後、正頼、仁寿殿の宮達、祐純、行正、親純、行純などが次々に祝いの歌を詠んだのだけど、ここには特に載せない。
最終更新日
2009年08月04日 22時47分06秒
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